●歌は、「大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ」である。
●歌をみていこう。
◆大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
(柿本人麻呂 巻三 三〇四)
≪書き下し≫大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通(がよ)ふ島門(しまと)を見れば神代(かみよ)し思ほゆ
(訳)我が大君の遠いお役所として、人びとが常に往き来する島門を見ると、この島々が生み成された神代が偲ばれる。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)とほのみかど【遠の朝廷】分類連語:朝廷の命を受け、都から遠く離れた所で政務をとる役所。諸国の国府や大宰府(だざいふ)をさす。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典
(注)ありがよふ【有り通ふ】自動詞:いつも通う。通い続ける。 ※「あり」は継続の意の接頭語。(学研)
(注)しまと【島門】名詞:島と島との間や島と陸地との間の狭い海峡。(学研) ここでは、明石海峡を「遠の朝廷」への門口と見立てたもの。
島門を朱雀門と見立てこの歌碑を建てたのであろう
「大君の遠の朝廷とあり通朱雀門見れば神代し思ほゆ」という心境だろう。
題詞は、「柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首」<柿本朝臣人麻呂、筑紫(つくし)の国に下(くだ)る時に、海道(うみつぢ)にして作る歌二首>である。
三〇三、三〇四歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その888-1)」で紹介している。
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大宰府政庁跡北西部にある坂本八幡宮境内ならびにその近辺の万葉歌碑を巡ったあとは御笠川(みかさがわ)の北西詰めにある朱雀門礎石の側の万葉歌碑を目指す。
川原で発見されたこの礎石は、政庁跡の南門跡の礎石から見ても、朱雀門がいかに巨大であったを想像させるものであるという。
大宰府朱雀門礎石(推定)の説明案内板に次のように書かれている。
「この礎石は、昭和57(1982)年12月4日、御笠川河川改修工事の際に河床(現在の朱雀大橋の真下付近)から発見されたものです。
周辺の発掘調査から、奈良~平安時代にかけて大宰府政庁の前面には広場があり、その両側は役所が建ち並ぶ官衙域(かんがいき)(官庁街)だったとわかってきました。都では大極殿(だいこくでん)や役所が並ぶ大内裏(だいだいり)の南正面は「朱雀門」と呼ばれており、この礎石の発見によって、大宰府でも都と同じように官衙域の南正面であるこの付近に朱雀門があったと考えられるようになりました。
この礎石は、大きさが2.42m×1.82m、あつさ1.3m、重さ約7,5tで、上面には柱を立てる円形の柱座(はしらざ)(上部66cm)が造り出されています。」
太宰府の地から、平城京跡を思いめぐらせるとは思っても見なかったが、実現できたのである。太宰府の前に北陸高岡の地をめぐったこともあり、万葉への思いが随分と身近なものになったような気がする。
万葉歌碑の歌を自分なりに紐解いて行くと、逆に万葉集が遠い存在になって行く。つかめるようでつかめない万葉集。それだけに魅力一杯輝いている。
半歩でもいい、気かづきたい万葉集である。
ほぼ予定していた太宰府の万葉歌碑を巡り終えたので、駆け足だったが充実した一日であった。
博多のホテルに戻った。
少し休んでから、博多駅まで夜の散歩を楽しんだ。
博多駅前広場は、静かにイベントを開催していた、
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」