万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2586の1)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや(大伴旅人 3-438)」、我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき(大伴旅人 3-446)」、「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりける(大伴旅人 5-793)」、「橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き(大伴旅人 8-1473)」などである。

 

「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「大伴旅人」を読み進んでいこう。

 「大まかにいえば、壬申の乱以前は比較的儀礼に結びついた歌や内廷の女性たちの歌が多く、壬申の乱後、白鳳期の歌は儀礼性にしばられることは少なくなったが、なお宮廷における歌が多い。それが八世紀にはいると、いっそう一般の生活の場における歌が増大し、やがて天平を迎えると生活の中に歌は拡散してしまう。これが万葉の歌の歴史である。だから奈良時代の和歌は、宮廷歌人以外に多くの歌人を持つことが特色である。」(同著)

 「(大伴)旅人は大納言兼大将軍安麻呂の長子で、自身も大納言を極官として天平三年(七三一)七月に、年六十七歳をもって薨ずる。大伴氏はその本貫とする土地の関係から天皇氏に古くから扈従(こじゅう)し、物部とともに天皇氏と消長をともにしてきた旧大豪族である。・・・この旧氏族に対抗するのが律令貴族たる藤原氏であり、八世紀初頭は藤原氏の徐(おもむ)ろにして逞(たくま)しい勢力伸長の時期であった。そのなかでわが旅人は、この大旧族凋落(ちょうらく)の危機に、しかも絶望的に生まれ合わせた、大伴氏の氏上だった。」(同著)

 「旅人は神亀三、四年(七二六、七)のころ大宰帥(だざいのそち)に任ぜられて筑紫(ちくし)に赴く。・・・旅人としては二度目の九州生活ではあった・・・大宰帥はけっして軽職ではないが、この赴任は藤原氏の策略であろうといわれている。」(同著)

 「旅人は辺境に追いやられ、・・・この辺土まではるばる同行した妻を、その地で失っている。赴任後一、二年のことである。その悲しみは万葉集に十三首(巻三、四二八~四四〇、四四六~四五三。巻五、七九三。巻八、一四七三)の歌となってあらわれる。しかもおりにふれて、幾度にも。これはほかに例のないことである。」(同著)

 

 まず、「その悲しみは万葉集に十三首の歌となってあらわれる」とある十三首をみていこう。

 

■■巻三、四二八~四四〇■■

題詞は、「神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思戀故人歌三首」<神亀(じんき)五年戊辰(つちのえたつ)に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、故人を思(しの)ひ恋ふる歌三首>である。

(注)神亀五年:728年

(注)故人:旅人が神亀五年に死んだ妻をさした言葉。(伊藤脚注)

 

■巻三、四二八歌■

◆愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉

       (大伴旅人 巻三 四三八)

 

≪書き下し≫愛(うつく)しき人のまきてし敷栲(しきたへ)の我(わ)が手枕(たまくら)をまく人あらめや

 

(訳)いとしい人が枕にして寝た私の腕(かいな)、この手枕を枕にする人が亡き妻のほかにあろうか。あるものではない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)まく人のあらめや:枕にする人などまたとあろうか。(伊藤脚注)

(注の注)めや 分類連語:…だろうか、いや…ではない。 ⇒なりたち推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」(学研)

 

左注は、「右一首別去而経數旬作歌」<右の一首は、別れ去(い)にて数旬を経(へ)て作る歌>である。

 

 

 

■巻三 四三九歌■

◆應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕

       (大伴旅人 巻三 四三九)

 

≪書き下し≫帰るべく時はなりけり都にて誰(た)が手本(たもと)をか我(わ)が枕(まくら)かむ

 

(訳)いよいよ都に帰ることができる時期となった。しかし、都でいったい誰の腕を、私は枕にして寝ようというのか。(同上)

(注)帰るべく時:旅人の帰京は、天平二年(730年)十二月。(伊藤脚注)

(注)たもと【袂】名詞:①ひじから肩までの部分。手首、および腕全体にもいう。②袖(そで)。また、袖の垂れ下がった部分。 ※「手(た)本(もと)」の意から。(学研)

(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※ ②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研) ここでは①の意

 

 

 

 

 

■巻三 四四〇歌■

◆在京 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦

       (大伴旅人 巻三 四四〇)

 

≪書き下し≫都にある荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅にまさりて苦しかるべし

 

(訳)都にある人気のない家にたった一人で寝たならば、今の旅寝にもましてどんなにつらいことであろう。(同上)

(注)旅にまさりて:二句目の奈良の「家」に対して、異郷筑紫のわびしい生活をいう。(伊藤脚注)

 

左注は、「右二首臨近向京之時作歌」<右の二首は、京に向ふ時に臨近(ちか)づきて作る歌>である。

 

 

 

 

■■巻三 四四六~四五〇歌■■(※同著では四四六~四五三となっているが二群に分けて紹介します)

題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>

 

■巻三 四四六歌■

◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉

         (大伴旅人 巻三 四四六)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき

 

(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(同上)

(注)鞆の浦広島県福山市鞆町の海岸。(伊藤脚注)

(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(学研)

 

福山市鞆町 対潮楼石垣下万葉歌碑(大伴旅人 3-446) 20220525撮影

 福山市鞆町 対潮楼石垣下万葉歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を(その1632)」で紹介している。

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福山市春日町 広島大学附属福山中・高等学校校庭万葉歌碑(大伴旅人 3-446) 20220525撮影



 

 広島大学附属福山中・高等学校校庭万葉歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1627)」で紹介している。

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■巻三 四四七歌■

◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方

        (大伴旅人 巻三 四四七)

 

≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

 

(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(同上)

(注)磯のむろの木:前歌より焦点が絞られている。(伊藤脚注)

(注)見むごとに:これからも見ることがあればその度ごとに。将来にかけての言い方。(伊藤脚注)

 

 

 

 

■巻三 四四八歌■

◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可

        (大伴旅人 巻三 四四八)

 

≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

 

(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(同上)

(注)根延(ねば)ふむろの木:さらに焦点を絞って霊木に呼びかけた。霊木なら妻のいる所を知っていよう・・・。(伊藤脚注)

 

  四四六から四五〇歌までであり、四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。

 

広島県福山市鞆町  医王寺万葉歌碑(大伴旅人  3-448) 20221130撮影

 

 医王寺の歌碑については拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2104)」で紹介している。

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■巻三 四四九歌■

◆与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨之見者 涕具末之毛

       (大伴旅人 巻三 四四九)

 

≪書き下し≫妹(いも)と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を帰るさにひとりし見れば涙(なみた)ぐましも

 

(訳)行く時にあの子と見たこの敏馬の埼を、帰りしなにただ一人で見ると、涙がにじんでくる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)敏馬に「見ぬ妻」を匂わせるているか。(伊藤脚注)

(注)涙ぐましも:敏馬の崎に入ろうとする折の悲しみ。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 四五〇歌■

◆去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪  <一云見毛左可受伎濃>

        (大伴旅人 巻三 四五〇)

 

≪書き下し≫行くさにはふたり我(あ)が見しこの崎をひとり過ぐれば心(こころ)悲しも

 <一には「見もさかず来ぬ」といふ>

 

(訳)行く時には二人して親しく見たこの敏馬の崎なのに、ここを今一人で通り過ぎると、心が悲しみでいっぱいだ。<遠く見やることもせずにやって来てしまった。>(同上)

(注)ひとり過ぐれば:以下、敏馬の崎を振り切ろうとする時の感激。(伊藤脚注)

(注)見もさかず来ぬ:結句の異文。悲しくて見もやらずに来てしまった、の意。(伊藤脚注)

 

 なお、左注が、「右二首過敏馬埼日作歌」<右の二首は、敏馬の﨑を過ぐる日に作る歌>である。

 

 

 

■■巻三 四五一~四五三歌■■

題詞は、「 還入故郷家即作歌三首」<故郷の家に還り入りて、すなはち作る歌三首>である。

■巻三 四五一歌■

◆人毛奈吉 空家者 草枕 旅尓益而 辛苦有家里

       (大伴旅人 巻三 四五一)

 

≪書き下し≫人もなき空(むな)しき家は草枕旅にまさりて苦しくありけり

 

(訳)人気もないがらんとした家は、枕の苦しさにまして、やっぱり、何とも無性にやるせない。(同上)

(注)人もなき空しき家:妻もいないがらんどうな家は。先の四四〇歌の照応する歌。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 四五二歌■

◆与妹為而 二作之 吾山齊者 木高繁 成家留鴨

       (大伴旅人 巻三 四五二)

 

≪書き下し≫妹としてふたり作りし我(わ)が山斎(しま)は木高(こだか)く茂(しげ)くなりにけるかも

(注)山斎:前歌の「家」から「山斎」へと焦点を絞る。「山斎」は泉水や築山などのある庭。(伊藤脚注)

(注の注)しま【山斎】名詞:庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。(学研)

 

 

 

 

■巻三 四五三歌■

◆吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流

       (大伴旅人 巻三 四五三)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙(なみた)し流る

 

(訳)いとしいあの子が植えた梅の木、その木をを見るたびに、胸がつまって、とどめもなく涙が流れる。(同上)

(注)梅の木:前歌の「山斎」から「梅の木」に焦点を絞る。(伊藤脚注)

(注)見るごとに:追慕が将来かけてやむことのないことを匂わす。(伊藤脚注)

 

巻三、四二八~四四〇、四四六~四五三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その895)」で紹介している。

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■巻五、七九三歌■

 題詞は、「大宰帥大伴卿報凶問歌一首」<大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、凶問(きょうもん)に報(こた)ふる歌一首>である。

(注)凶問(きょうもん)〘名〙: 凶事の知らせ。死去の知らせ。凶音。一説に、凶事を慰問すること。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

前文は、「禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳<  筆不盡言 古今所歎>」である。

 

≪前文の書き下し≫禍故重疊(くわこちようでふ)し、凶問累集(るいじふ)す。永(ひたふる)に崩心(ほうしん)の悲しびを懐(むだ)き、獨(もは)ら断腸(だんちやう)の泣(なみた)を流す。ただ、両君の大助(たいじよ)によりて、傾命(けいめい)をわづかに継げらくのみ。    <筆の言を盡さぬは、古今歎くところ>

 

≪前文訳≫不幸が重なり、悪い報(しら)せが続きます。ひたすら崩心の悲しみに沈み、ひとり断腸の涙を流しています。ただただ、両君のこの上ないお力添えによって、いくばくもない余命をようやく繋ぎ留めているばかりです。<筆では言いたいことも尽くせないのは、昔も今も一様に嘆くところです。>(同上)

(注)禍故重疊:不幸が重なる。

(注)ひたぶるなり【頓なり・一向なり】形容動詞:①ひたすらだ。いちずだ。②〔連用形の形で、下に打消の語を伴って〕いっこうに。まったく。(学研)

(注)両君:庶弟稲公と甥胡麻呂か。

(注)傾命:余命

 

◆余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理

         (大伴旅人 巻五 七九三)

 

≪書き下し≫世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

 

(訳)世の中とは空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてきてしまうのです。(同上)

(注)上二句は「世間空」の翻案。

(注)いよよ【愈】副詞:なおその上に。いよいよ。いっそう。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その909)」で紹介している。

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太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク万葉歌碑(大伴旅人 5-793) 20201117撮影

 

 

 

 

■巻八、一四七三歌■

題詞は、「大宰帥大伴卿和歌一首」<大宰帥大伴卿が和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀為乍 鳴日四曽多毛

    (大伴旅人 巻八 一四七三)

 

≪書き下し≫橘の花散(ぢ)る里のほととぎす片恋(かたこひ)しつつ鳴く日しぞ多き

 

(訳)橘の花がしきりに散る里の時鳥、この時鳥は、散った花に独り恋い焦がれながら、鳴く日が多いことです。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)片恋しつつ:亡妻への思慕をこめる。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その896)」で紹介している。

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太宰府歴史スポーツ公園万葉歌碑(大伴旅人 8-1473) 202201117撮影



 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典