●歌は、「隠りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし」である。
石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)万葉歌碑(大伴家持)
20230704撮影
●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「大伴家持晩蝉歌一首」<大伴家持が晩蝉(ひぐらし)の歌一首>である。
◆隠耳 居者欝悒 奈具左武登 出立聞者 来鳴日晩
(大伴家持 巻八 一四七九)
≪書き下し≫隠(こも)りのみ居(を)ればいぶせみ慰(なぐさ)むと出(い)で立ち聞けば来鳴くひぐらし
(訳)家にひきこもってばかりいると気がふさぐので、気晴らしに外に出て耳を澄ますと、もうひぐらしが来て鳴いている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)いぶせみ:「いぶせし」のミ語法。
(注の注)いぶせし 形容詞:①気が晴れない。うっとうしい。②気がかりである。③不快だ。気づまりだ。 ⇒参考:「いぶせし」と「いぶかし」の違い 「いぶせし」は、どうしようもなくて気が晴れない。「いぶかし」はようすがわからないので明らかにしたいという気持ちが強い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
(注)ひぐらし:時期は6月末から9月上旬、「カナカナカナ・・・」と高い声で鳴く。中型のセミで、平地から山地にかけての薄暗い林の中に生息し、明け方や夕方に合唱する。(NHK セミ図鑑より)
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万葉集に「昆虫」はどのくらい詠われているのか気になったので調べてみた。
岡山県自然保護センター 田中瑞穂氏の稿「万葉の動物考」(岡山県自然保護センター研究報告1998)に、次のようにまとめられていましたので、引用させていただきました。
「ひぐらし」と「蝉」を追っかけてみよう。
■巻十 一九六四■
題詞は、「詠蟬」<蟬を詠む>である。
◆黙然毛将有 時母鳴奈武 日晩乃 物念時尓 鳴管本名
(作者未詳 巻十 一九六四)
≪書き下し≫黙(もだ)もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思(ものも)ふ時に鳴きつつもとな
(訳)のんびりしている時にでも鳴いてほしい。なのに、ひぐらしが、こんなに物思いをしている時に、むやみやたらと鳴き立てたりして・・・。(同上)
(注)もだ【黙】名詞:黙っていること。何もしないでじっとしていること。▽「もだあり」「もだをり」の形で用いる。(学研)
(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)
■巻十 一九八二■
題詞は、「寄蟬」<蟬に寄す>である。
◆日倉足者 時常雖鳴 我戀 手弱女我者 不定哭
(作者未詳 巻十 一九八二)
≪書き下し≫ひぐらしは時と鳴けども片恋(かたこひ)にたわや女(め)我(あ)れは時(とき)わかず泣く
(訳)ひぐらしは、今こそ我が時とばかり鳴いているけれども、片思いゆえに、か弱い女であるこの私は、一日中泣き濡れている。(同上)
(注)時と:今が時節だと。(伊藤脚注)
(注)たわやめ【手弱女】名詞:しなやかで優しい女性。「たをやめ」とも。 ※「たわや」は、たわみしなうさまの意の「撓(たわ)」に接尾語「や」が付いたもの。「手弱」は当て字。[反対語] 益荒男(ますらを)。(学研)
(注)ときわかず【時分かず】分類連語:四季の別がない。いつと決まっていない。時を選ばない。 ⇒なりたち:名詞「とき」+四段動詞「わく」の未然形+打消の助動詞「ず」(学研)
■巻十 二一五七■
題詞は、「詠蟬」<蟬を詠む>である。
◆暮影 来鳴日晩之 幾許 毎日聞跡 不足音可聞
(巻十 二一五七)
≪書き下し≫夕影(ゆふかげ)に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽(あ)かぬ声かも
(訳)夕方のかすかな光の中に来て鳴いているひぐらし、このひぐらしは、こんなに毎日毎日聞いても、けっして聞き飽きることのない声だ。(同上)
(注)ここだく【幾許】副詞:「ここだ」に同じ。 ※上代語。
(注の注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研)
■巻十 二二三一■
◆芽子花 咲有野邊 日晩之乃 鳴奈流共 秋風吹
(作者未詳 巻十 二二三一)
≪書き下し≫萩の花咲きたる野辺(のへ)にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く
(訳)萩の花の一面に咲いている野辺に、ひぐらしの声が聞こえてくる折も折、秋の風が吹いてくる。(同上)
(注)なへ 接続助詞:《接続》活用語の連体形に付く。〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。 ※上代語。中古にも和歌に用例があるが、上代語の名残である。(学研)
■巻十五 三五八九■
◆由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里
(秦間満 巻十五 三五八九)
≪書き下し≫夕(ゆふ)さればひぐらし来(き)鳴(な)く生駒山(いこまやま)越えてぞ我(あ)が来る妹(いも)が目を欲(ほ)り
(訳)夕方になると、ひぐらしが来て鳴くものさびしい生駒山、生駒の山を越えて私は大和へと急いでいる。もう一目あの子に逢いたくて。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)めをほる【目を欲る】:連語 見たい、会いたい。(学研)
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この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その450)」で紹介している。
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■巻十五 三六一七■
◆伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蟬乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由
(大石蓑麻呂 巻十五 三六一七)
≪書き下し≫石走(いはばし)る滝(たき)もとどろに鳴く蟬(せみ)の声をし聞けば都し思ほゆ
(訳)岩に激する滝の轟(とどろ)くばかりに鳴きしきる蝉、その蝉の声を聞くと、都が思い出されてならぬ。(同上)
左注は、「右一首大石蓑麻呂」<右の一首は大石蓑麻呂(おほいしのみのまろ)>である。
■巻十五 三六二〇■
◆故悲思氣美 奈具左米可祢弖 比具良之能 奈久之麻可氣尓 伊保利須流可母
(遣新羅使人等 巻十五 三六二〇)
≪書き下し≫恋繁(こひしげ)み慰(なぐさ)めかねてひぐらしの鳴く島蔭(しまかげ)に廬(いほ)りするかも
(訳)妻恋しさに気を晴らしようもないままに、ひぐらしの鳴くこの島蔭で仮の宿りをしている、われらは。(同上)
(注)前歌の妻恋しさを承け、三六一七歌の「蝉」にも応じている。(伊藤脚注)
三六一七、三六二〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1618)」で紹介している。
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■巻十五 三六五五■
◆伊麻欲理波 安伎豆吉奴良之 安思比奇能 夜麻末都可氣尓 日具良之奈伎奴
(遣新羅使人等 巻十五 三六五五)
≪書き下し≫今よりは秋(あき)づきぬらしあしひきの山松蔭(やままつかげ)にひぐらし鳴きぬ
(訳)今からはもう秋というものになってゆくらしい。この山松の木陰でひぐらしがしきりに鳴いている。(同上)
(注)「松」に妻が「待つ」意を懸ける。(伊藤脚注)妻との約束の「秋」の近づきを述べて故郷への思いを馳せている。
■巻十七 三九五一■
◆日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敝之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之
(秦忌寸八千嶋 巻十七 三九五一)
≪書き下し≫ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺(のへ)を行(ゆ)きつつ見(み)べし
(訳)ひぐらしの鳴いているこんな時には、女郎花の咲き乱れる野辺をそぞろ歩きしながら、その美しい花をじっくり賞(め)でるのがよろしい。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)をみなえし:三九四三(家持),三九四四歌(池主)の女郎花を承ける。越中の「ヲミナ」の意をこめ、望郷の念の深まりを現地への関心に引き戻す。(伊藤脚注)
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この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1349表①~③)」で紹介している。
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「カナカナカナ・・・」と物憂げに鳴くひぐらしは確かに歌になる。しかし、クマゼミやアブラゼミの鳴き声は、喧噪以外の何物でもない。
多分万葉時代もクマゼミやアブラゼミは鳴いていたと思うが、歌を作るイメージとはかけ離れたものであったのだろう。
蟬のなかでも「ひぐらし」が詠われているのも、今、クマゼミの鳴き声を聞くというより、耳に襲いかかってくる感覚にさらされていることからもうなずけるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」