万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2555)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「こもよ みこもち ふくしもよ みふくし持ち この岳に 菜摘ます子 家のらせ 名のらさね そらみつ 倭の国は おしなべて われこそをれ 敷きなべて われこそませ 我をこそ 背とはのらめ(我こそはのらめ) 家をも名をも」である。

奈良県桜井市黒崎白山神社万葉歌碑(雄略天皇) 20190514撮影

●歌碑は、奈良県桜井市黒崎白山神社にある。

(注)本文中の「同著」は「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)をさします。

 

●歌をみていこう。

 

標題は、「泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇」<泊瀬(はつせ)の朝倉(あさくら)の宮に天(あめ)の下(した)知(し)らしめす天皇(すめらみこと)の代(みよ) 大泊瀬稚武天皇(おほはつせわかたけのすめらみこと)>である。

(注)大泊瀬稚武天皇:二十一代雄略天皇

(注)泊瀬朝倉宮:第21代雄略天皇の営んだ宮です。雄略天皇の代には、熊本県や埼玉県の古墳から獲加多支鹵(ワカタケル)大王と雄略天皇の名を彫った鉄剣・鉄刀が出土していることから、大和朝廷の勢力が全国に及んでいたとされています。また、中国にも朝貢の記録があり、『宋書』(西暦502年完成)に記されている倭の五王、讃・珍・済・興、武のうち、武は、雄略天皇であるとされています。記紀に記されている三輪山大物主大神や葛城の一言主大神にかかわる逸話や、万葉集の巻頭を飾る妻問いの歌には、国の礎を固めつつある雄略天皇の力強く自信に溢れた様子がうかがえます。(桜井市HP)

 

 題詞は、「天皇御製歌」<天皇の御製歌>である。

(注)万葉巻頭歌。巻二十最後の歌と響き合い、祝福の意を示す。本来は巻一原本五三までの巻頭歌。(伊藤脚注)

 

◆籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根  虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母

       (雄略天皇 巻一 一)

 

≪書き下し≫籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ちこの岡(をか)に 菜(な)摘(つ)ます子 家告(の)れせ 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居(を)れ しきなべて 我れこそ居(を)れ 我れこそば 告(の)らめ 家をも名をも

 

(訳)おお、籠(かご)よ、立派な籠を持って、おお。堀串(ふくし)よ、立派な堀串を持って、ここわたしの岡で菜を摘んでおいでの娘さん、あなたの家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。霊威満ち溢れるこの大和の国は、隅々までこの私が平らげているのだ。果てしもなくこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方から先にうち明けようか、家も名も。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)もよ 分類連語:ねえ。ああ…よ。▽強い感動・詠嘆を表す。 ※上代語。 ⇒なりたち 係助詞「も」+間投助詞「よ」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)み- 【御】接頭語:名詞に付いて尊敬の意を表す。古くは神・天皇に関するものにいうことが多い。「み明かし」「み軍(いくさ)」「み門(みかど)」「み子」(学研)

(注の注)持ち物を通して娘子をほめている。

(注)ふくし【掘串】名詞:土を掘る道具。竹や木の先端をとがらせて作る。 ※後に「ふぐし」とも。(学研)

(注)菜摘ます:「菜摘む」の尊敬語

(注)のらす【告らす・宣らす】分類連語:おっしゃる。▽「告(の)る」の尊敬語。 ⇒なりたち 動詞「の(告)る」の未然形+尊敬の助動詞「す」(学研)

(注の注)家や名を告げるのは、結婚の承諾を意味する。

(注)そらみつ 分類枕詞:国名の「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。(学研)

 (注)おしなぶ 他動詞:(一)【押し靡ぶ】押しなびかせる。「おしなむ」とも。(二)【押し並ぶ】①すべて同じように行きわたる。②並である。普通である。 ※(二)の「おし」は接頭語。(学研)

(注)しきなぶ【敷き並ぶ】自動詞:すべてにわたって治める。一帯を統治する。(学研)

(注)ます【坐す・座す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでである。おありである。▽「あり」の尊敬語。②いらっしゃる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)

(注)こそ 係助詞:《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞・助詞などに付く。上代では已然形にも付く。①〔上に付く語を強く指示し、文意を強調する〕ほかの事・物・人ではなく、その事・物・人。②〔「こそ…已然形」の句の形で、強調逆接確定条件〕…は…だけれど。…こそ…けれども。 参考⇒ばこそ・もこそ・あらばこそ

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その95改)」で、奈良県桜井市黒崎白山神社の万葉歌碑ならびに「萬葉集発耀仰碑」とともに紹介している。

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 同著によれば、「万葉集巻四という一巻はすべて相聞(そうもん)の歌をあつめたもので、相聞とはおたがい贈答しあった歌を意味するが、その大半は愛の贈答である。」とそして、巻四の冒頭歌(四八四歌)が挙げられ、「この歌も磐姫伝説の変形のようにおもわれる。」と書かれている。

 四八四歌をみてみよう。

 

題詞は、「難波天皇妹奉上在山跡皇兄御歌一首」<難波天皇(なにはのすめらみこと)の妹(いもひと)、大和(やまと)に在(いま)す皇兄に奉上(たてまつ)る御歌一首>である。

(注)妹:仁徳天皇の異母妹、矢田皇女。(伊藤脚注)

(注)皇兄:天皇である兄、すなわち仁徳天皇。(伊藤脚注)

 

◆一日社 人母待吉 長氣乎 如此耳待者 有不得勝

      (八田皇女 巻四 四八四)

 

≪書き下し≫一日(ひとひ)こそ人も待ちよき長き日(け)をかくのみ待たば有りかつましじ

 

(訳)一日ぐらいなら人を待つのもたやすいことでしょう。しかし、日を重ねに重ねてこんなにも待たされたのでは、とても生きてはいられない気持ちです。(同上)

(注)よき:上代では、形容詞はコソを連体形で承ける。(伊藤脚注)

(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒なりたち:可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1822)」で紹介している。

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 矢田皇女の名は、巻二 九〇歌に左注にみえる。左注については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その番外200513)」で紹介している。

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 前稿で触れた「木梨軽太子(きなしのかるのみこ)の歌として古事記にのせられる歌が、次のように万葉には作者を伝えずに載せられている。」(同著)

 巻十三 三二六三歌をみてみよう。

 

◆己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打 下湍尓 真杭乎挌 伊杭尓波 鏡乎懸 真杭尓波 真玉乎懸 真珠奈須 我念妹毛 鏡成 我念妹毛 有跡謂者社 國尓毛 家尓毛由可米 誰故可将行

       (作者未詳 巻十三 三二六三)

 

≪書き下し≫こもりくの 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち 下(しも)つ瀬に 真杭(まくひ)を打ち 斎杭には 鏡を懸(か)け 真杭には 真玉を懸け 真玉なす 我(あ)が思(おも)ふ妹(いも)も 鏡なす 我(あ)が思ふ妹(いも)も ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰(た)がゆゑか行かむ

 

(訳)隠(こも)り処(く)の柏瀬、その柏瀬の川の上の瀬に斎杭(いくい)を打ち、下の瀬に真杭を打ち、斎杭には鏡を懸け、真杭には真玉のように私がたいせつに思う子、その鏡のように私がたいせつに思う子、その子でもいるというのなら、郷(くに)へも家へも帰りもしよう。が、この私はいったい誰のために帰ろうというのか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫

(注)ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ:いるというのなら故郷へも家へも帰ろうが。

 

左注は、「檢古事記曰 件歌者木梨之軽太子自死之時所作者也 」<檢古事記を検(ただ)すに曰く、「件(くだ)りの歌は木梨之軽太子の自(みずか)ら死にし時に作る所なり」といふ>である。

 

「ここに五世紀をいろどる愛の伝誦(でんしょう)の数かずが、まるで散らばってしまった珠玉のかけらのように万葉の古代をかざっている様子がわかる。」(同著)

「・・・古事記の雄略が愛の物語の主人公であり、他者王者としての雄姿をもつものであることを知るとき、われわれは容易に万葉の雄略を理解することができる。万葉において雄略は・・・巻一の巻頭に姿を見せ、また巻九においても巻頭は次にあげる雄略の歌からはじめられるのである。

「『籠(こ)もよ み籠持ち』という素朴さは民間にそのまま伝わった歌と思われるが、その中に『そらみつ』以下大和支配の威圧的な六句が挿入されている。おそらく民間伝承の歌謡が雄略を主人公とする歌物語に応用されたものであろう。」(同著)

そして、巻九の巻頭歌(一六六四歌)にも触れ、この「歌の優美さはすばらしい。こちらは朝廷に伝えられた雄略像だと思われる。巻頭歌の中に生きていた古事記的雄略像は、のちにこの雄略像に姿をかえていくけれども、このふたつの時点とふたつの場を通して、雄略は万葉びとの心の中に生き続けていったのである。」(同著)

 

巻九 一六六四歌もみてみよう。

 

 題詞は、「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」<泊瀬(はつせ)の朝倉(あさくら)の宮に天(あめ)の下(した)知らしめす大泊瀬幼武天皇(おほはつせわかたけのすめらみこと)の御製歌一首>である。

(注)泊瀬朝倉宮桜井市初瀬脇本灯明田。(伊藤脚注) 古墳時代の第二十一代雄略天皇が営んだ宮殿

(注)ぎょう【御宇】名詞:その天皇が天下をお治めになった期間。御代(みよ)。ご治世。※「宇」は世界の意。(学研)

(注の注)萬葉集では、「天(あめ)の下(した)知(し)らしめす」と読む。

(注)大泊瀬稚武天皇:第二十一代雄略天皇

 

◆暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜

       (雄略天皇 巻九 一六六四)

 

≪書き下し≫夕(ゆふ)されば小倉(をぐら)の山に伏す鹿は今夜(こよひ)は鳴かず寐寝る(いね)にけらしも

 

(訳)夕方になると、小倉の山で伏せることにしている鹿、その莬餓(とが)野の鹿同様危険にさらされた鹿は、どうしてか、今夜に限って鳴かない。大丈夫かな、なに、今夜は妻に巡り逢えて無事寝込んだのであるらしい。(伊藤 博 著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)伏す鹿:危険にさらされる鹿の意があった。仁徳紀「莬餓(とが)野の鹿」の話を参照。。シは強意の助詞で、下のランに応ずる。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右或本云崗本天皇御製 不審正指 因以累載」<右は、或本には「岡本天皇(をかもとのすめらみこと)の御製といふ。正指(せいし)を審らかにせず、よりて累(かさ)ね載(の)す>である。

(注)岡本天皇:三十四代舒明天皇(伊藤脚注)

(注)正指(せいし)を:どれが正しいかを。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その93改)」で紹介している。

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 雄略天皇御製歌(巻九 一六六四)は巻九の冒頭歌である。しかし、左注に、「右或本云崗本天皇御製 不審正指 因以累載」とある。

 

雄略天皇歌:暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜

      夕されば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かずい寝(ね)にけらしも

崗本天皇歌:暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家思母(巻八 一五一一)

      夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐(い)ねにけらしも

 

どちらも天皇御製歌である。万葉集編纂者の「正指(せいし)を審らかにせず、よりて累(かさ)ね載(の)す」の文言の中に、大変な作業を進めている中で、ある意味大胆な判断をさらりとやってのけているのには、驚かされるとともに微笑ましさを感じざるを得ない。

 

 一五一一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1255)」で県立播磨中央公園いしぶみの丘の歌碑とともに紹介している。

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(参考文献)

萬葉集 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「桜井市HP」