万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2556)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「家にあらば妹が手まかむ草枕旅にこやせるこの旅人あはれ」である。

奈良県桜井市上之宮 春日神社境内万葉歌碑(聖徳太子) 20190531撮影

●歌碑は、奈良県桜井市上之宮 春日神社境内にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首  小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者 豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古」<上宮聖徳皇子(かみつみやのしやうとこのみこ)、竹原の井(たかはらのゐ)に出遊(いでま)す時に、竜田山(たつたやま)の死人を見て悲傷(かな)しびて作らす歌一首  小墾田の宮に天の下知らしめすは豊御食炊屋姫天皇なり。諱は額田、謚は推古>である。

(注)竹原の井:大阪府柏原市高井田。(伊藤脚注)

(注の注)竹原井(たかはらのゐ):柏原市高井田の地で、大和から竜田山を西に越えた道に当り、大和川がその南の岸を回流している。古代に離宮がおかれ、難波への往還の要所となっていた。(後略)(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリー

(注)小墾田(をはりだ):奈良県高市郡飛鳥(あすか)地方のこと。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと):推古天皇(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)推古天皇(554~628) 記紀で第三三代天皇(在位592~628)の漢風諡号しごう。名は額田部(ぬかたべ)。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇蘇我馬子に殺されると、推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い、飛鳥文化を現出。(コトバンク 「大辞林第三版」)

 

◆家有者 妹之手将纏 草枕 客尓臥有 此旅人 ▼怜

        (聖徳太子 巻三 四一五)

   ▼は、「忄+可」。→「▼怜」=「あはれ」

 

≪書き下し≫家ならば妹(いも)が手まかむ草枕旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびと)あはれ   

 

(訳)家にいたなら、いとしい妻の腕(かいな)を枕にしているであろうに、草を枕に旅先で一人倒れ臥しておられるこの旅のお方は、ああいたわしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は下三句に対する。(伊藤脚注)

(注)「臥やす」は「臥ゆ」の敬語。死者への敬意を示す。(伊藤脚注)

 

 

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その114改)」で奈良県桜井市上之宮 春日神社境内万葉歌碑とともに紹介している。

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 中西 進 著「古代史で楽しむ 万葉集」(角川ソフィア文庫)(以下、同著)に、聖徳太子について次のように書かれている。

 「聖徳太子の出生は敏達(びたつ)天皇の三年(五七四)で、用明(ようめい)天皇と穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后との間の第一皇子である。現在の橘寺(たちばなでら)、当時の用明天皇離宮がその生誕の地だという。・・・平群(へぐり)・大伴(おおとも)・物部(もののべ)らの諸豪族の盛衰を経て、七世紀初頭には蘇我(そが)氏の巨大な勢力があった。太子にとっても父方・母方ともの祖母は蘇我稲目(いなめ)の娘(堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねぎみ))であり、みずからの妃のひとりにも蘇我馬子(うまこ)の娘刀自古郎女(とじこのいらつめ)がいる。崇峻(すしゅん)天皇が馬子に殺された後、次の天皇に推古(すいこ)という女帝がたったのは、元来女帝の即位が変則的であることからみて、おそらく蘇我の勢力とのかねあいの中で、朝廷は天皇をきめかねたのではなかったか。天皇の最有力候補であった聖徳太子は皇太子として摂政の地位につく。これがいろいろ事情を考えあわせた後の落着であった。」

 そして冠位十二階について、「従来はこの蘇我の勢力が象徴するような氏族制の社会であったのに、いま官僚制に姿をかえようとしているのであって、つぎの大化の改新を経て完成してくる律令制による天皇集権の朝廷は、ここにまず第一歩をしるしたのである。万葉という個人的抒情文学の誕生は、じつに律令制という政治体制と密接にむすびついているのだから、この冠位十二階の制定は、まず第一の万葉への夜明けといってよいであろう。(同著)

 さらに「推古三十年、四十九歳の生涯をおえた太子は、はやくも白鳳の世に多くの信仰を得る身となった。十七条憲法三経義疏(ぎしょ)もそうした太子信仰の中に偽作されたのではないかともいわれる。『法王帝説』以下、太子をめぐる伝記が作られ、日本書紀にすでに聖者と化した太子が現れてくる。」

 そして、万葉集に「上宮聖徳皇子(かみつみやのみこ)」の四一五歌も、太子信仰の現れのひとつとされている。

 書紀にある同種の歌と比較して、「万葉では家の妹を想いやる歌になっている。これは聖者像というより人間としての慈愛を太子の上に感じとったものだ。それは太子の仏教帰依のその中から出てきた人間への愛(いと)しみであろう。万葉の歌の流れの上で、太子は一つの人間誕生をつげる存在となっていた。」(同著)

 

 

「佛法最初聖徳太子御誕生所」の碑と橘寺については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その142改)」で紹介している。

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 「太子道」は、万葉の時代に聖徳太子が『斑鳩の里』から『三宅の原』を経て、『飛鳥の宮』とを往来された道といわれている。「太子道」に関しては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その432)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫より)

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「コトバンク 大辞林第三版」