●歌は、「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし(大伯皇女 2-105)」、「ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(大伯皇女 2-106)」、
「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(大津皇子 3-416)」、「吉備春日神社 金烏臨西舎 鼓聲催短命 泉路無賓主 此夕離家向(大津皇子 懐風藻)」、「神風の伊勢の国にあらましを何しか来けむ君もあらなくに(大伯皇女 2-163)」そして「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(大伯皇女 2-166)」である。
●歌碑は、(大伯皇女 2-105)、(大伯皇女 2-106)が三重県多気郡明和町斎宮 歴史の道、(大津皇子 3-416)が東池尻町 妙法寺、(大津皇子 懐風藻)ならびに(大伯皇女 2-163)が奈良県桜井市吉備 春日神社、(大伯皇女 2-166)が三重県名張市 夏見廃寺跡にある。
●それぞれの歌と歌碑をみていこう。
■大伯皇女 2-105■
一〇五・一〇六歌の題詞は、「大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首」<大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来(く)る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首>である。
◆吾勢祜乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
(大伯皇女 巻二 一〇五)
≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)るとさ夜更けて暁(あかつき)露に我(わ)が立ち濡れし
(訳)わが弟を大和へ送り帰さねばならぬと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとどに濡れた。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その427)」で紹介している。
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■大伯皇女 2-106■
◆二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
(大伯皇女 巻二 一〇六)
≪書き下し≫ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
(訳)二人で歩を運んでも寂しくて行き過ぎにくい暗い秋の山なのに、その山を、今頃君はどのようにしてただ一人越えていることであろうか。(同上)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その428)」で紹介している。
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■大津皇子 3-416■
題詞は、「大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首」<大津皇子(おほつのみこ)、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首>
◆百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見 雲隠去牟
(大津皇子 巻三 四一六)
≪書き下し≫百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ
(訳)百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。(同上)
(注)ももづたふ【百伝ふ】:枕詞 數を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や、「五十(い)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いはれ)」にかかる。
左注は、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」≪右、藤原の宮の朱鳥(あかみとり)の元年の冬の十月>とある。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その118改)」で紹介している。
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◆神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
(大伯皇女 巻二 一六三)
≪書き下し≫神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何(なに)しか来けむ君もあらなくに
(訳)荒い風の吹く神の国伊勢にでもいた方がむしろよかったのに、どうして帰って来たのであろう、我が弟ももうこの世にいないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
臨終 臨終
金烏臨西舎 金烏 西舎に臨み
鼓聲催短命 鼓声 短命を促す
泉路無賓主 泉路 賓主無し
此夕離家向 この夕家を離(さか)りて向かふ
(注)金烏(きんう):太陽のこと
(訳)日は西の家屋を照らし、夕刻を告げる鼓の音はさながら自分の短命を促すようである。死出の道には客も主人もなく、自分ひとりである。この夕べ自分は家を離れて、ひとり死出の旅路にむかうのである。(生方たつゑ 著 「大津皇子」角川選書より)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その106改)」で紹介している。
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■大伯皇女 2-166■
題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である
◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
(大伯皇女 巻二 一六六
≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなく
(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(同上)
(注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(同上)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その392)」で紹介している。
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「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)によると、「壬申の動乱にむすびついてあれほど天武の尊崇した伊勢神宮である。そこにこともあろうに天武天皇崩御という大事の時に、下向するなどということが、敵側に口実をあたえないはずはない。大津としてはいつもの『法度(はっと)に拘(かかは)』(規則にとらわれない)性格として下ったにすぐなかったのだろうが、これが『謀反』の証拠とされた。
伊勢には斎宮として大伯(おおく)(大来)皇女がつかえていた。母を大田皇女とする、いまや大津の唯一の肉身であった。事の重大さに驚愕し、不吉な将来を予感したのか、大伯は弟の去っていった後を見送って、いつまでも立ちつくしていた。巻二、一〇五・一〇六(歌は省略)」
「大津の家は磐余(いわれ)の訳語田(おさだ)にあった。大津はみずからの死を、巻三、四一六」(歌は省略)といたむ。」(同著)
「『文をよく属(つく)る』といわれ、日本書紀で日本の漢詩は大津からはじまったとさえいわれた漢詩の、その最後を、懐風藻(詩は省略)に一首で飾っている。その若き妃山辺皇女は髪をふり乱し、はだしのまま屍(しかばね)に走り寄って、ともに命を絶った。・・・天武の死による御代がわりに、一代一人未婚の皇女を当てると決められた斎宮・大伯は都に呼び戻される。大伯は十一月、弟のいない大和に帰って来た。その途上、巻二、一六三歌(歌は省略)といっている。・・・静謐(せいひつ)な神への祈りの世界以外にこれからの生きる場所を失ったことを物語っている。大津を二上山に移し葬ったときは、ちょうど馬酔木(あしび)が花盛りのころであった。巻二、一六六(歌は省略)。大宝元年のその死まで、大伯はめぐり来る春ごとに手折った馬酔木の空しさを見つめつづけたのであろうか。」
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」