万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1439、1440)―愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P7、P8)―万葉集 巻八 一五九一、巻二 一六六

―その1439―

●歌は、「黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P7)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P7)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆黄葉乃 過麻久惜美 思共 遊今夜者 不開毛有奴香

      (大伴家持 巻八 一五九一)

 

≪書き下し≫黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜(こよひ)は明けずもあらぬか

 

(訳)もみじが散ってゆくのを惜しんで、気の合うもの同士で遊ぶ今夜は、このまま明けずにいてはくれないものか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)まく:…だろうこと。…(し)ようとすること。 ※派生語。 ⇒語法:活用語の未然形に付く。 ⇒なりた:ち推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)おもふどち【思ふどち】名詞:気の合う者同士。仲間。(学研)

 

左注は、「右一首内舎人大伴宿祢家持」< 右の一首は内舎人(うどねり)大伴宿禰家持>である。

(注)うどねり【内舎人】名詞:律令制で、「中務省(なかつかさしやう)」に属し、帯刀して、内裏(だいり)の警護・雑役、行幸の警護にあたる職。また、その人。「うとねり」とも。 ※「うちとねり」の変化した語。(学研)

(注の注)家持が内舎人と記される最初の例。家持二一歳。(伊藤脚注)

 

 歌群(一五八一から一五九一歌)の題詞は、「橘朝臣奈良麻呂結集宴歌十一首」<橘朝臣奈良麻呂(たちばなのあそみならまろ)、集宴を結ぶ歌十一首>である。

 

歌群の左注は、「以前冬十月十七日集於右大臣橘卿之舊宅宴飲也」<以前(さき)は、冬の十月の十七日い、右大臣橘卿が旧宅に集(つど)ひて宴飲(えんいん)す。>である。

(注)旧宅:橘諸兄の奈良の旧宅か。

 

 この歌を含む全十一首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その939)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 この宴は、天平十年(738年)に開かれている。ここには家持の歌友で、その後数々の歌の贈答を繰り返し親交を深めた大伴池主もいた。

藤原氏の台頭の歴史の大波のなか約20年後、主の橘奈良麻呂の変(757年)にあって、池主と袂を分かつことになるとはだれ一人思ってもみなかったであろう。

 

 

―その1440―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P8)万葉歌碑<プレート>(大伯皇女)

 ※どうしてこのように歌碑に心ないいたずらをするのであろうか。やめて欲しいものである。

●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P8)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 一六五、一六六歌の題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

      (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌ならびに一六五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

万葉集で馬酔木が詠われている歌は十首収録されている。この歌を含めすべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その204)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 この歌の前に一六三、一六四歌が収録されているが、こちらの題詞は、「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢斎宮上京之時御作歌二首」<大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首>である。

 

 一六三、一六四歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その106改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

斎宮」については、「斎宮歴史博物館HP」に次のように書かれている。

「『いつきのみや』とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。

 古くは、伊勢神宮起源伝承で知られる倭姫命(やまとひめのみこと)など伝承的な斎王もいますが、その実態はよくわかっていません。

 制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)で、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています。」

 

 大伯皇女の歌は六首収録されている。後の二首は、一〇五、一〇六歌である。

 題詞は、「大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首」<大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来(く)る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首>である。

 この歌ならびに斎宮についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その427~429)」で紹介している。

 ➡

tom101010.hatenablog.com

 

 大伯皇女の歌を通して、大津皇子の悲劇が語られているのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「斎宮歴史博物館HP」