―その1437―
●歌は、「朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」である。
●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P5)にある。
●歌をみてみよう。
◆朝杲 朝露負 咲雖云 暮陰社 咲益家礼
(作者未詳 巻十 二一〇四)
≪書き下し≫朝顔(あさがほ)は朝露(あさつゆ)負(お)ひて咲くといへど夕影(ゆふかげ)にこそ咲きまさりけれ
(訳)朝顔は朝露を浴びて咲くというけれど、夕方のかすかな光の中でこそひときわ咲きにおうものであった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)ゆふかげ【夕影】名詞:①夕暮れどきの光。夕日の光。[反対語] 朝影(あさかげ)。
②夕暮れどきの光を受けた姿・形。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
現在のアサガオは、この当時渡来していないので、この「朝顔(あさがほ)」については、桔梗(ききょう)説・木槿(むくげ)説・昼顔説などがあるが、木槿も昼顔も夕方には花がしぼむので、「夕影(ゆふかげ)にこそ咲きまさりけれ」というのは桔梗であると考えるのが妥当であろうといわれている。
題詞は、「花を詠む」である
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その654)」で紹介している。
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―その1438―
●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。
●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P6)にある。
●歌をみていこう。
◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
(有間皇子 巻二 一四一)
≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む
(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。
この歌ならびに「有間皇子之碑」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1188、白浜番外)で紹介している。
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また、「有間皇子結松記念碑」他についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1193、番外岩代)」で紹介している。
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「有間皇子の墓」。「有間皇子神社」、「藤白神社」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その746,747)」で紹介している。
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題詞の「自傷」は、柿本人麻呂の巻二 二二三歌の題詞にも使われている。題詞ならびに二二三歌もみてみよう。
題詞は、「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首」<柿本朝臣人麻呂石見の国に在りて死に臨む時に、自(みづか)ら傷(いた)みて作る歌一首>である。
◆鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
(柿本人麻呂 巻二 二二三)
≪書き下し≫鴨山(かもやま)の岩根(いはね)しまける我(わ)れをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ
(訳)鴨山の山峡(やまかい)の岩にして行き倒れている私なのに、何も知らずに妻は私の帰りを今日か今日かと待ち焦がれていることであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)鴨山:石見の山の名。所在未詳。
(注)いはね【岩根】名詞:大きな岩。「いはがね」とも。(学研)
(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研)ここでは①の意
(注)しらに【知らに】分類連語:知らないで。知らないので。 ※「に」は打消の助動詞「ず」の古い連用形。上代語。(学研)
梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 上」の中で、「ここで『自傷』という言葉がつかわれているが、この同じ言葉が詞書につかわれているのは、同じこの巻の挽歌の最初の歌のみである。」と書かれ、題詞「有間皇子、自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首」と一四一、一四二歌を挙げておられる。
そして、「非業の死をとげた有間皇子の歌の詞書と同じ表現である点に、その死が尋常な死でないことを感じさせる。」との論を展開されている。
自傷という言葉から人麻呂の終焉の地の考え方については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1340)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「水底の歌 柿本人麿論 上」 梅原 猛 著 (新潮文庫)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」