万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1340)―島根県邑智郡美郷町 湯抱温泉の温泉橋袂「柿本人麻呂終焉之地碑」―万葉集 巻二 二二三

●歌は、「鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ」である。

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柿本人麻呂終焉之地碑 万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑(柿本人麻呂終焉之地碑)は、島根県邑智郡美郷町 湯抱温泉の温泉橋袂にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有

       (柿本人麻呂 巻二 二二三)

 

≪書き下し≫鴨山(かもやま)の岩根(いはね)しまける我(わ)れをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ

 

(訳)鴨山の山峡(やまかい)の岩にして行き倒れている私なのに、何も知らずに妻は私の帰りを今日か今日かと待ち焦がれていることであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)鴨山:石見の山の名。所在未詳。

(注)いはね【岩根】名詞:大きな岩。「いはがね」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研)ここでは①の意

(注)しらに【知らに】分類連語:知らないで。知らないので。 ※「に」は打消の助動詞「ず」の古い連用形。上代語。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1266)」で紹介している。

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 高角山公園からの田中俊睎氏との出会いの偶然と、ご縁に感謝し、パレット江津を後にし、柿本人麻呂終焉の地と斎藤茂吉が断定した湯抱温泉に向かう。

 

 約1時間のドライブである。石見銀山の近くを通過する。石見銀山道路(国道375号線)は、結構山道であるが道は整備されている。

 ようやく、左方向「湯抱温泉700m」の標識が見えた。戻るような感じで左折、斎藤茂吉鴨山記念館を左手に見ながら山道を上って行く。

 山中の小さな集落的なといってもそれなりの今様の家屋が集まっているところが正面に見えてくる。ようやく湯抱温泉に到着。町は静まり返り、車も通らない。橋の袂の手前に駐車場があるので、そこでまず遅い昼御飯にする。

 食事中商用車が1台通っただけである。コロナ禍とはいえあまりにも閑散としている。人麻呂はこのような、当時は山奥であるがゆえもっとうら寂しいところであったと考えられるが、終焉を迎えたのだろうか、と思った。そして「自ら傷(いた)みて」詠んだとされる歌はどのようにして伝えられたのであろうかという素朴な疑問が頭をよぎった。

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湯抱温泉 温泉橋と碑

 終焉の地に関する有識者の考えは考えとして、単純に思うのは、この歌がどのようにして妻依羅娘子に伝わったかという疑問である。ある意味「死に臨む時に、自ら傷みて作る歌」が「鴨山の岩根」を枕にして人麻呂が詠ったとしても、誰にどのようにして伝えられ、それが妻の元に届いたのかである。通りすがりの人と出会う確率を考えるとほとんどゼロに近いのでは、お供がいたとは考えにくいなどと考えてみる。通りすがりか、何らかの理由で傍にいた人が伝えたとして、「口誦の時代」である。人麻呂が今でいうメモのような物に書き残していたとして、それを読むことができ且つ人麻呂と認識できる人と出会うのは、とうてい考えられない。

 現地と言われる所に行ってみないとこのような疑問は起こらないであろう。

 

 気になるのは、題詞の「柿本朝臣人麻呂石見の国に在りて死に臨む時に、自(みづか)ら傷(いた)みて作る歌一首」の、「死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首」の文言である。

 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 上」の中で、「ここで『自傷』という言葉がつかわれているが、この同じ言葉が詞書につかわれているのは、同じこの巻の挽歌の最初の歌のみである。」と書かれ、題詞「有間皇子、自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首」と一四一、一四二歌を挙げておられる。

 そして、「非業の死をとげた有間皇子の歌の詞書と同じ表現である点に、その死が尋常な死でないことを感じさせる。・・・『自傷』とは、どういうことか。自らの死を傷むとは、どういう場合にありうることか。死とは予期しがたく、実際にその死がきたときには、人間は意識を失っているはずである、それゆえ、自らの死が確実であるという意識が必要であろう。・・・自らの死を傷む歌をつくるのは、自らの死が確実であるとことが意識されながら、しかもその死が自らにとってのぞましくない場合である。」と書かれている。

 そのうえで、死後、神として祭り上げられている等々から、人麻呂流人説をとられ鴨島で入水させられたと説いておられる。

 終焉の地と言われる斎藤茂吉湯抱温泉の地は、現地を見ての印象では信じがたく、万葉集の題詞の「自傷」から鑑み、「自らの死が確実であるとことが意識されながら、しかもその死が自らにとってのぞましくない場合である」と考えると、歌を詠んでから妻依羅娘子に伝わる時間的経過や確実性に納得がいくように考えられる。

 巻二の「挽歌」の巻頭と巻末(二二八歌以降は追補と考えられる)であることを考えると、編集者の「自傷」への思いは同じであるといってよいだろう。

 

 有間皇子の歌をみてみよう。

 題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

       (有間皇子 巻二 一四一)

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

◆家有者 笱尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉盛

     (有間皇子 巻二 一四二)

≪書き下し≫家なれば笱(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(番外 岩代)」で紹介している。

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死を覚悟し、人麻呂は妻を思い、皇子は無事を祈り、また、時代は異なるが、元禄時代浅野内匠頭の辞世の句「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」では、春の名残を、それぞれ淡々と無念さを内に秘めながらも詠っている。死を覚悟した胸中というのはこのようなものなのであろうか。自己を殺し、自己を冷静に客観的に見つめ、言葉をある意味、慎重に選び選び抜いた末の歌である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」