万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2376)―

■やまあい■

「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)より引用させていただきました

●歌は、「しなでる片足羽川のさ丹塗りの大橋の上ゆ紅の赤裳裾引き山藍もち・・・」である。

千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園万葉歌碑(プレート) 20230926撮影

●歌碑(プレート)は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「見河内大橋獨去娘子歌一首并短歌」<河内(かふち)の大橋を独り行く娘子(をとめ)を見る歌一首并(あは)せて短歌>である。

(注)河内 分類地名:旧国名畿内(きない)五か国の一つ。今の大阪府東部。河州(かしゆう)。古くは「かふち」であったらしい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

◆級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 紅 赤裳數十引 山藍用 摺衣服而 直獨 伊渡為兒者 若草乃 夫香有良武 橿實之 獨歟将宿 問巻乃 欲我妹之 家乃不知久

       (高橋虫麻呂 巻九 一七四二)

 

≪書き下し≫しなでる 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗(ぬ)りの 大橋の上(うへ)ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾引(すそび)き 山藍(やまあゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ 橿(かし)の実の ひとりか寝(ぬ)らむ 問(と)はまくの 欲(ほ)しき我妹(わぎも)が 家の知らなく

 

(訳)ここ片足羽川のさ丹塗りの大橋、この橋の上を、紅に染めた美しい裳裾を長く引いて、山藍染めの薄青い着物を着てただ一人渡って行かれる子、あの子は若々しい夫がいる身なのか、それとも、橿の実のように独り夜を過ごす身なのか。妻どいに行きたいかわいい子だけども、どこのお人なのかその家がわからない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)「しなでる」は片足羽川の「片」にかかる枕詞とされ、どのような意味かは不明です。(「歌の解説と万葉集柏原市HP)

(注)「片足羽川」は「カタアスハガハ」とも読み、ここでは「カタシハガハ」と読んでいます。これを石川と考える説もありますが、通説通りに大和川のことで間違いないようです。(「歌の解説と万葉集柏原市HP)

(注)さにぬり【さ丹塗り】名詞:赤色に塗ること。また、赤く塗ったもの。※「さ」は接頭語。(学研)

(注)くれなゐの【紅の】分類枕詞:紅色が鮮やかなことから「いろ」に、紅色が浅い(=薄い)ことから「あさ」に、紅色は花の汁を移し染めたり、振り出して染めることから「うつし」「ふりいづ」などにかかる。(学研)

(注)やまあい【山藍】:トウダイグサ科多年草。山中の林内に生える。茎は四稜あり、高さ約40センチメートル。葉は対生し、卵状長楕円形。雌雄異株。春から夏、葉腋ようえきに長い花穂をつける。古くは葉を藍染めの染料とした。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)

(注)わかくさの【若草の】分類枕詞:若草がみずみずしいところから、「妻」「夫(つま)」「妹(いも)」「新(にひ)」などにかかる。(学研)

(注)かしのみの【橿の実の】の解説:[枕]樫の実、すなわちどんぐりは一つずつなるところから、「ひとり」「ひとつ」にかかる。(goo辞書)

(注)問はまくの欲しき我妹:妻問いのしたいかわいい人。マクはムのク語法。(伊藤脚注)

                           

 

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 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1033)」他で紹介している。

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 題詞にある「河内大橋」について、柏原市HPに次のように書かれている。

「『万葉集』巻9―1742・1743に、高橋虫麻呂の『河内大橋を独り行く娘子を見る歌』があります。『しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ(後略)』。この歌から、河内大橋という丹塗りの橋があったことがわかります。虫麻呂は藤原宇合の従者で、宇合は聖武天皇のときの知造難波宮司でした。難波宮を造営していた730年前後に、虫麻呂はたびたび平城宮難波宮のあいだを往来していたのです。虫麻呂が見た河内大橋とは、当時の行幸路が大和川を渡る地に架けられていた橋と推定できます。

 また、和歌山県伊都郡花園村(現かつらぎ村)の医王寺に所蔵されていた大般若経の識語(写経が行われた経緯などを記す文)によると、河東の化主と呼ばれた万福法師ができなかった橋の改修を、花影禅師が引き継いで天平勝宝6年(754)に完成したということです。この大般若経は、家原邑(里)の知識の人々によって写経されたものです。知識とは、仏教を信仰し、自らの財産を寄付して造寺・造仏などを行う行為や人々のことです。家原邑は、河内国大県郡の家原寺(安堂廃寺)周辺と想定され、この橋とは河内大橋のことでしょう。江戸時代に大和川が付け替えられた地点付近に架けられていた橋だったと考えられます。橋の改修が知識の財力や労力によってなされたのならば、架橋も知識によると考えられます。河内大橋とは、平城宮から難波宮へ至る行幸路上に設けられた、大和川を渡る橋だったのです。そしてその橋は知識によって架橋、改修された橋だったのです。」

 

 ここで、犬養 孝著「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」(平凡社)(以下、犬養著と略させていただきます)を参考に「河内(地名)」に関わる万葉歌(題詞等も含む)をみてみよう。

 

■河内女 巻七 一三一六■

題詞は、「寄絲」<糸に寄す>である。

河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 将絶跡念也

         (作者未詳 巻七 一三一六)

 

≪書き下し≫河内女(かふちめ)の手染の糸を繰(く)り返し片糸(かたいと)にあれど絶えむと思へや

 

(訳)河内の国の女たちがその手で染めた糸を、何度も繰った、そんな糸なのだから、片糸であっても、切れてしまうとは思えない。(同上)

(注)河内 分類地名 :旧国名畿内(きない)五か国の一つ。今の大阪府東部。河州(かしゆう)。古くは「かふち」であったらしい。(学研)

(注)くりかへす【繰り返す】他動詞:何度も糸をたぐる。何度も同じことをする。(学研)⇒絶えず思っている様

(注)かたいと【片糸】名詞:より合わせていない糸。 ※縫い合わせる糸は、より合わせた糸を使う。(学研)⇒片思いの譬え

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その451)」で紹介している。

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■河内離宮(かふちのとつみや) 巻二十 四四五七■

 四四五七~四三五九歌の題詞は、「天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉廿四日戌申 太上天皇大后幸行於河内離宮 経信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴歌三首」<天平勝宝(てんびやうしようほう)八歳丙申(ひのえさる)二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)の二十四日戌申(つちのえさる)に、太上天皇天皇、大后、於河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信以壬子(ふたよあまりみづのえね)をもちて難波(なには)の宮に伝幸(いでま)す。三月の七日に、於河内の国伎人(くれ)の郷(さと)の馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首>である。

(注)天平勝寶八歳:756年

(注)太上天皇天皇、大后:聖武上皇孝謙天皇光明皇太后(伊藤脚注)

(注)河内の離宮大阪府柏原市高井田辺りの宮。(伊藤脚注)

(注)伎人の郷:大阪市平野区喜連あたり。(伊藤脚注)

 

 四四五七~四三五九歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1771)」で紹介している。

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■弓削河 巻七 一三八五■

題詞は、「寄埋木」<埋れ木に寄す>である。

(注)「埋れ木」は、人に知られたくない交際の譬え。(伊藤脚注)

 

◆眞釶持 弓削河原之 埋木之 不可顕 事尓不有君

        (作者未詳    巻七 一三八五)

 

≪書き下し≫真鉋(まかな)持ち弓削(ゆげ)の川原(かはら)の埋(うも)れ木(ぎ)のあらはるましじきことにあらなくに

 

(訳)弓削の川原の埋れ木が、現れずにすむことなどすむことなどあるはずはけっしてないのだが・・・。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)うもれぎ【埋もれ木】:① 長く水中や土中に埋もれた木が完全には炭化せず、まだ木質を残しているもの。黒褐色または緑褐色で木目が美しく堅いため細工物の材料とする。神代木(じんだいぼく)。② 世間から顧みられない不遇の身の上。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)まかなもち【真鉋持ち】:[枕]鉋 (かんな) で弓を削る意から、地名の「弓削 (ゆげ) 」にかかる。(goo辞書」

(注)弓削河:布施市から八尾市に入り、弓削(ゆげ)をへて大和川にはいっていた長瀬川のこと。(犬養著)

 

 

草香江 巻四 五七五■

草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天

       (大伴旅人 巻四 五七五)

 

≪書き下し≫草香江(くさかえ)の入江にあさる葦鶴(あしたづ)のあなたづたづし友なしにして

 

(訳)草香の入江には餌(え)をあさる葦鶴の姿が見えるが、ああ、たずたずしく心もとないことだ。ともに語りあえる友もいなくて。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)草香江:難波江の東端。生駒山の西麓。同じ地名が博多湾西部にもある。相手に近いその海岸の映像を重ねることで二人の一体性を示した。(伊藤脚注)

(注の注)草香江:住吉、生駒山西麓から西方一帯にかけて大きな入り江があったのをいう。旧大和川の奔放な水脈と淀川よりする水脈によってできていた沼沢地。宝永の新大和川開さく以後現況に向かうにいたった。(犬養著)

(注)上三句は序。同音で「たづたづし」を起こす。(伊藤脚注)

(注)あな 感動詞:ああ。あれ。まあ。(学研)

(注)たづたづし>たどたどし 形容詞:①心もとない。おぼつかない。はっきりしない。②あぶなっかしい。たどたどしい。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その916)」で沙弥満誓の歌二首と旅人のもう一首とともに紹介している。

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■草香山 巻六 九七六■

題詞は、「五年癸酉超草香山時神社忌寸老麻呂作歌二首」<五年癸酉(みづのととり)に、草香山(くさかやま)を越ゆる時に、神社忌寸老麻呂(かむこそのいみきおゆまろ)が作る歌二首>である。

(注)草香山:生駒山の西の一部、東大阪市日下町付近の山地。(伊藤脚注)

 

◆難波方 潮干乃奈凝 委曲見 在家妹之 待将問多米

       (神社忌寸老麻呂 巻六 九七六)

 

≪書き下し≫難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)のなごりよく見てむ家なる妹(いも)が待ち問はむため

 

(訳)難波潟の潮干のなごりのさまをよく見ておこう。家にいるいとしい子が待ち受けていてあれやこれやたずねるであろうから。(同上)

(注)なごり:潮の引いた後の砂地の水たまり。(伊藤脚注)

 

 

■直越 巻六 九七七■

◆直超乃 此徑尓弖師 押照哉 難波乃海跡 名附家良思蒙

       (神社忌寸老麻呂 巻六 九七七)

 

≪書き下し≫直越(ただこえ)のこの道にしておしてるや難波の海と名付(なづ)けけらしも

 

(訳)直越のこの道においてこそ、昔の人は、“おしてるや難波の海”と名付けたのであるらしい。(同上)

(注)直越:難波と大和を直線的に結ぶ道。竜田山を越える本道に対していう。(伊藤脚注)

(注の注)直越:草香の山越の道は奈良難波間の捷路であって、「真っすぐに越える道」の意で直越(ただこえ)と称された。『古事記』に『日下直越道(くさかのただこえのみち)』ともあって、すでに地名化されていた。(後略)(犬養著)

 

 

■竹原井 巻三 四一五歌の題詞■

 四一五歌の題詞は、「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首  小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者 豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古」<上宮聖徳皇子(かみつみやのしやうとこのみこ)、竹原の井(たかはらのゐ)に出遊(いでま)す時に、竜田山(たつたやま)の死人を見て悲傷(かな)しびて作らす歌一首  小墾田の宮に天の下知らしめすは豊御食炊屋姫天皇なり。諱は額田、謚は推古>である。

(注)竹原の井:大阪府柏原市高井田。(伊藤脚注)

(注の注)竹原井(たかはらのゐ):柏原市高井田の地で、大和から竜田山を西に越えた道に当り、大和川がその南の岸を回流している。古代に離宮がおかれ、難波への往還の要所となっていた。(後略)(犬養著)

(注)小墾田(をはりだ):奈良県高市郡飛鳥(あすか)地方のこと。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと):推古天皇(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)推古天皇(554~628) 記紀で第三三代天皇(在位592~628)の漢風諡号しごう。名は額田部(ぬかたべ)。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇蘇我馬子に殺されると、推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い、飛鳥文化を現出。(コトバンク 「大辞林第三版」)

 

 

 四一五歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その114改)」で紹介している。

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■明日香河 巻十 二二一〇■

◆明日香河 黄葉流 葛木 山之木葉者 今之落疑

       (作者未詳 巻十 二二一〇)

 

≪書き下し≫明日香川(あすかがわ)黄葉(もみぢば)流る葛城(かづらき)の山の木(こ)の葉は今し散るらし

 

(訳)明日香川にもみじが流れている。この分では、葛城(かつらぎ)の山の木の葉は、今頃しきりに散っていることであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)明日香川:巻十 二二一〇の「明日香川」は、大和の飛鳥川ではなく、河内の飛鳥川で、大和・河内国境の二上山(にじょうさん)の南、竹内峠付近に発し、南河内郡太子町を西北方に流れ大阪府羽曳野市飛鳥を過ぎて、石川と合する川である。(後略)(犬養著)

 

 

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その月読橋番外編)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社

★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 大辞林第三版」

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「goo辞書」

★「柏原市HP」