万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2326)―

●歌は、「家ならば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ」である。

富山市下大久保 新宮公園隣り万葉歌碑(聖徳太子) 20230705撮影

●歌碑は、富山市下大久保 新宮公園の隣にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首  小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者 豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古」<上宮聖徳皇子(かみつみやのしやうとこのみこ)、竹原の井(たかはらのゐ)に出遊(いでま)す時に、竜田山(たつたやま)の死人を見て悲傷(かな)しびて作らす歌一首  小墾田の宮に天の下知らしめすは豊御食炊屋姫天皇なり。諱は額田、謚は推古>である。

(注)竹原の井:大阪府柏原市高井田。(伊藤脚注)

(注)小墾田(をはりだ):奈良県高市郡飛鳥(あすか)地方のこと。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと):推古天皇(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)推古天皇(554~628) 記紀で第三三代天皇(在位592~628)の漢風諡号しごう。名は額田部(ぬかたべ)。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇蘇我馬子に殺されると、推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い、飛鳥文化を現出。(コトバンク 「大辞林第三版」)

 

◆家有者 妹之手将纏 草枕 客尓臥有 此旅人 ▼怜

        (聖徳太子 巻三 四一五)

   ▼は、「忄+可」。→「▼怜」=「あはれ」

 

≪書き下し≫家ならば妹(いも)が手まかむ草枕旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびと)あはれ   

 

(訳)家にいたなら、いとしい妻の腕(かいな)を枕にしているであろうに、草を枕に旅先で一人倒れ臥しておられるこの旅のお方は、ああいたわしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は下三句に対する。(伊藤脚注)

(注の注)きゃく【客】[漢字項目]<[音]キャク(呉) カク(漢) [訓]まろうど>:①他人の家を訪れる人。招かれる人。「客人・客間/先客・弔客・珍客・賓客・来客」②旅。旅人。「客死・客舎」③料金を払う利用者。「客車・客席/観客・上客・乗客・船客・浴客」④本来のことではなく、一時的なこと。「客員・客演」⑤主体・主観に対して外部にあること。「客観・客体」(コトバンク デジタル大辞泉

(注)「臥やす」は「臥ゆ」の敬語。死者への敬意を示す。(伊藤脚注)

 

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感想(1件)

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その114改)」で奈良県桜井市上之宮春日神社境内の歌碑とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

                           

 


 

 「奈良県HP『はじめての万葉集 vol.50』の「聖(ひじり)は聖を知る」稿に次のように詳細に書かれている。引用させていただきます。

 「古代史上、最も有名な人物の一人である聖徳太子。『日本書紀』の薨去(こうきょ)の記事では、万民が親や子を失ったように泣き悲しみ、まるで月日が光を失い、天地が崩れたようだと伝えられています。聖徳太子がそのように民に慕われていたのは、その名が象徴するように、聖(ひじり)のような徳をもって人びとに接していたことによるのでしょう。今回の歌は、太子の聖たる由縁(ゆえん)を伝える、伝承歌と考えられている一首です。

 この歌の題詞には、聖徳太子が竹原井(たかはらのい)(現在の大阪府柏原市高井田)に出かけた時に、龍田山で死人を見て悲しんで作った歌とあります。この歌に類似する歌と物語が、『日本書紀』にも記されています。『日本書紀』では、太子が片岡を遊行していた時に、道に倒れている飢人と出会います。太子は飢人に飲食と自らの衣を与えて、『しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ……』と歌をうたいます。しかし飢人は死んでしまい、太子はひどく悲しんで手厚く埋葬しますが、後日その屍は消えて衣だけが残されていました。太子は、実はあの飢人が聖の化身であることを見抜いていたのです。『日本書紀』ではこの物語の最後に、聖は聖を知るというのは本当であり、人びとはいよいよ畏(かしこ)まったと伝えています。この太子と飢人にまつわる説話は、物語や歌を変化させながら、太子の伝記である『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』や、仏教説話集の『日本霊異記(にほんりょういき)』や『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』にも収録されています。

 古代では、旅の途中で行き倒れて命を落としてしまう人がいました。そのような死者に出会った時には、歌を詠んでその哀れな魂を鎮めるのが習わしだったようです。この作品も、死者の魂をなぐさめる歌を通して、聖徳太子伝承を抱えながら『万葉集』に収録された一首と思われます。(本文 万葉文化館 大谷 歩)」

 

 

 聖徳太子については、誕生したと伝えられる奈良県高市郡明日香村橘「橘寺」、そして大阪府南河内郡太子町太子「叡福寺」には御廟がある。


 奈良県高市郡明日香村橘「橘寺」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その142改)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

大阪府南河内郡太子町太子「叡福寺」ならびに御廟については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その461)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 四一五の歌碑のあるところは、八幡神社の境内の隣の新宮公園の一角である。

なぜ、ここに聖徳太子の歌碑があるのか気になっていろいろと検索するも、太子関連のこの歌碑に関する情報は見つからない。

八幡神社については曳山祭り関連でヒットする。確かに同神社の一隅に曳山の収納庫があった。(写真は写していません)。

新宮公園についても土俵があることや相撲大会などに関する記事はヒットする。

しかし・・・

 

この歌碑は、八幡神社の境内の隣の新宮公園の一角にあったということの紹介しかできないのは残念ですがご容赦ください。

 

次の目的地は、松川べりである。ノーチェックであった歌碑と歌石版を目指して!!

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「コトバンク 大辞林第三版」

★「はじめての万葉集 vol.50」 (奈良県HP)