万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その463)―羽曳野市軽里 峰塚公園―万葉集 巻八 一四四三 

●歌は、「霞立つ野の上の方に行きしかばうぐひす鳴きつ春になるらし」である。

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羽曳野市軽里 峰塚公園万葉歌碑(丹比真人乙麻呂)


 

●歌碑は、羽曳野市軽里 峰塚公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆霞立 野上乃方尓 行之可波 鸎鳴都 春尓成良思

                                  (丹比真人乙麻呂 巻八 一四四三)

 

≪書き下し≫霞立つ野の上(うへ)の方(かた)に行きしかばうぐひす鳴きつ春になるらし

 

(訳)霞のかかっている野山のあたりに出かけて行ったところ、折しも鶯が鳴いた。今こそ春になったらしい。((伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「丹比真人乙麻呂歌一首 屋主真人之第二子也」<丹比真人乙麻呂(たぢじのまひとおとまろ)が歌一首 屋主真人(やぬしのまひと)が第二子なり>である。

 

「峰塚公園は、昭和62年に地区公園として都市計画決定がなされ、史跡である峯ヶ塚古墳を含む全体面積5.3haの都市公園です。公園北側の東西の道路は日本最古の官道である『竹内(たけのうち)街道』が通り、古代悠久の歴史とみどりを感じていただける公園として5つのゾーンで構成されています。」(羽曳野市HP)

 

 広大な公園の中から一つの歌碑を探すのは至難の業である。現地の事務所などで確認するしかない。国道170号線と竹内街道が交差する「軽里北」交差点を西に竹内街道を進む。公園の管理棟らしき建物が見えて来るので、左折して駐車場へと向かおうとハンドルを切りかけた時、積み木細工型の歌碑らしきものがちらっと見えた。駐車場から歩いてもどり、歌碑であることを確認する。先の叡福寺などと同じく広大な公園にしては簡素な歌碑である。歌碑らしい歌碑であったらと思いつつもすぐに見つけることができたことに感謝。

 

 ここで、あらためて「竹内街道(たけのうちかいどう)」をみておこう。

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竹内街道の碑

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竹内街道説明案内板

 

 大阪観光局HPの「竹内街道歴史資料館(日本最古の国道・竹内街道にちなんだ歴史を紹介する資料館)」の説明がよくわかるので引用させていただく。

 

 「竹内街道(たけのうちかいどう)は、飛鳥時代につくられ、後に堺と奈良・当麻町を結ぶ全長約30kmに拡張された日本最古の「国道」。もともとは二上山で石器の材料とされたサヌカイトを採掘するための道だったものが、推古21年(613)に、難波の港から飛鳥の都をつなぐ官道として整備された。以降、仏教などの外国文化や外国からの使節がこの街道を通って都へ入った。710年に奈良の平城京へと都が遷された後は、聖徳太子信仰の高まりをうけて聖徳太子の眠る上ノ太子へ向かう人々に利用されたり、中世末には自治都市・堺と大和をつなぐ経済の道として、江戸時代には西国巡りなど庶民の寺社詣での道として、時代とともに役目を変えてきた。「竹内街道」という名称は、竹内峠での大改修が行われた明治時代につけられたもので、現在も多くの人が往来する。この竹内街道歴史資料館では、そんな竹内街道と太子町に関する歴史や民俗資料を、古代の「石の道」、飛鳥時代の「最古の道・大道」、それ以降の「太子信仰の道」、「庶民の道」という4つの時代とテーマにわけ紹介。マルチビジョンによる映像や、石器や土器、聖徳太子の絵や仏像などの展示も。」

 

機会があれば、竹内街道を歩いてみたいものである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「羽曳野市HP」

★「竹内街道歴史資料館(日本最古の国道・竹内街道にちなんだ歴史を紹介する資料館)」 (大阪観光局HP)