万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1170)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(130)―万葉集 巻二十 四四四八

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(130)万葉歌碑<プレート>(橘諸兄



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(130)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 四四四六から四四四八歌の歌群の題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首」<同じき月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

                (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。ここでは、橘諸兄田辺福麻呂を家持のところに遣わし伝承させた歌について紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 橘諸兄の全歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1005)」ならびに「同(その1019)」の2回にわけて紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

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 題詞には、「左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首」とある。時の左大臣が、右大辨丹比國人真人を訪れて宴をしているのである。

 ここでは、丹比國人真人について調べてみよう。(多治比国人で検索)

 

検索してみると、講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusに次のように書かれている。

「?-? 奈良時代の官吏。出雲守(いずものかみ)、播磨(はりまの)守、宰少弐(だざいのしょうに)を歴任、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)3年(751)従四位下にすすむ。のち摂津大夫(だいぶ)、遠江(とおとうみの)守となるが、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変に連座して伊豆(いず)に流された。「万葉集」に長歌1首、短歌3首がみえる。氏は丹比ともかく」とある。

 橘奈良麻呂の変により、反藤原仲麻呂派の主軸、佐伯氏、多治比氏、大伴氏のほとんどが葬られた。多治比国人は、遠江守であったが連座により伊豆に流されたのである。

 多治比氏と大伴氏は橘諸兄橘奈良麻呂を通じて親密な関係にあったようである。

 

 大伴家持の実母は多治比郎女ではないかと考えられている。家持の妻坂上大嬢が越中に来ている時に、家持は次の歌を「丹比(たぢひ)家」に贈っている。誰に贈ったのかは未詳である、

 

題詞は、「贈京丹比家歌一首」<京の丹比家に贈る歌一首>である。

 

◆妹乎不見 越國敝尓 經年婆 吾情度乃 奈具流日毛無

                  (大伴家持 巻十九 四一七三)

 

≪書き下し≫妹(いも)を見ず越(こし)の国辺(くにへ)に年経(ふ)れば我(あ)が心どのなぐる日もなし

 

(訳)懐かしいあなたにお目にかからないで、越の国辺で年を過ごしていますので、私の心のなごむ日はありません。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)妹:丹比家の誰か不明

(注)こころど【心ど】名詞:しっかりした気持ち。精神。心の張り。 ※「こころどもなし」のように、多く打消に使われる。(学研)

(注)なぐる:なごむの意か

 

 家持は、もう一首丹比家に歌を贈っている。これもみてみよう。

 

◆安由乎疾 奈呉<乃>浦廻尓 与須流浪 伊夜千重之伎尓 戀度可母

                  (大伴家持 巻十九 四二一三)

 

≪書き下し≫東風(あゆ)をいたみ奈呉(なご)の浦廻(うらみ)に寄する波いや千重(ちへ)しきに恋ひわたるかも

 

(訳)東風(あゆ)の風が激しく吹いて、奈呉の浦辺に幾重にも打ち寄せる波、その波のように、いよいよしきりに恋しく思いつづけています。(同上)

 

左注は、「右一首贈京丹比家」<右の一首は、京の丹比(たぢひ)家に贈る>である。

 

 これらの歌から見えてくるのは、家持を軸とした多治比家との関係でありこれ以上は残念ながらわからなかった。

 

 

 多治比国人の歌は、万葉集長歌一首、短歌三首が収録されているとある。歌をみてみよう。

 

 まず、「左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首」のなかの四四四六歌である。

 

◆和我夜度尓 佐家流奈弖之故 麻比波勢牟 由米波奈知流奈 伊也乎知尓左家

                (丹比國人真人 巻二十 四四四六)

 

≪書き下し≫我がやどに咲けるなでしこ賄(まひ)はせむゆめ花散るやいやをちに咲け

 

(訳)我が家の庭に咲いているなでしこよ、贈り物はなんでもしよう。決して散るなよ。いよいよ若返り続けて咲くのだぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「右一首丹比國人真人壽左大臣歌」<右の一首は、丹比國人真人、左大臣を寿(ほ)ぐ歌>である。

 次は、長歌と短歌である。

 

題詞は、「登筑波岳丹比真人國人作歌一首幷短歌」<筑波(つくば)の岳(たけ)に登りて、丹比真人国人(たじひのまひとくにひと)が作る歌一首併(あは)せて短歌>である。

(注)筑波の岳:茨城県筑波山

 

◆鷄之鳴 東國尓 高山者 佐波尓雖有 朋神之 貴山乃 儕立乃 見杲石山跡 神代従 人之言嗣 國見為 筑羽乃山矣 冬木成 時敷時跡 不見而徃者 益而戀石見 雪消為 山道尚矣 名積叙吾来煎

                  (丹比國人真人 巻三 三八二)

 

≪書き下し≫鶏(とり)が鳴く 東(あずま)の国に 高山(たかやま)は さはにあれども 二神(ふたがみ)の 貴(たふと)き山の 並(な)み立ちの 見(み)が欲(ほ)し山と 神代(かみよ)より 人の言ひ継ぎ 国見(くにみ)する 筑波の山を 冬こもり 時じき時と 見ずて行(ゆ)かば 増して恋(こひ)しみ 雪消(ゆきげ)する 山道(やまみち)すらを なづみぞ我(あ)が来(け)る

 

(訳)ここ鷄が鳴く東の国に高い山はたくさんあるけれども、中でとりわけ、男(お)の神と女(め)の神の貴い山で並び立つさまが格別心をひきつける山と、神代の昔から人びとが言い伝え、春ごとに国見が行われてきた筑波の山よ、この山を今は冬でその時期でないからと国見をしないで行ってしまったなら、これまで以上に恋しさがつのるであろうと、雪解けのぬかるんだ山道なのに、そこを難渋しながら私はやっとこの頂までやって来た。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)とりがなく【鳥が鳴く・鶏が鳴く】分類枕詞:東国人の言葉はわかりにくく、鳥がさえずるように聞こえることから、「あづま」にかかる。(学研)

(注)二神の:男山と女山の二峰から成る。

(注)ふゆごもり【冬籠り】名詞:寒い冬の間、動植物が活動をひかえること。また、人が家にこもってしまうこと。 ※古くは「ふゆこもり」。(学研)

(注)ふゆごもり【冬籠り】分類枕詞:「春」「張る」にかかる。かかる理由は未詳。 ※古くは「ふゆこもり」。(学研)

(注)ときじ【時じ】形容詞:①時節外れだ。その時ではない。②時節にかかわりない。常にある。絶え間ない。 ⇒参考 上代語。「じ」は形容詞を作る接尾語で、打消の意味を持つ。(学研)

(注の注)冬こもり時じき時と:まだ冬でその時ではないからと、の意。

(注)ゆきげ【雪消・雪解】名詞:①雪が消えること。雪どけ。また、その時。②雪どけ水。※「ゆき(雪)ぎ(消)え」の変化した語。(学研)

(注)なづむ【泥む】自動詞:①行き悩む。停滞する。②悩み苦しむ。③こだわる。気にする。(学研)

(注)来(け)る:「来+あり」の約「来り」の連体形。やって来ている。

 

 反歌もみてみよう。

 

◆築羽根矣 卌耳見乍 有金手 雪消乃道矣 名積来有鴨

                  (丹比國人真人 巻三 三八三)

 

≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)を外(よそ)のみ見つつありかねて雪消(ゆきげ)の道をなづみ来るかも

 

(訳)名も高き筑波の嶺をよそ目にばかり見ていられなくて、雪解けのぬかるみ道なのに、足をとられながら今この頂までやって来た。(同上)

 

 四首目は一五五七歌である。驚くことに、どういう事情か分からないが、尼寺の私房で沙弥尼(さみに:仏門に入りたての尼僧のこと)達と宴をして歌を詠っているのである。

 

一五五七から一五五九歌の歌群の題詞は、「故郷豊浦寺之尼私房宴歌三首」<故郷の豊浦(とゆら)の寺(てら)の尼(あま)の私房(しぼう)のして宴(うたげ)する歌三首>である。

(注)故郷:古京、ここは明日香。

(注)豊浦寺(とゆらでら):奈良県高市郡明日香村にあった寺。欽明 13 (552) 年蘇我稲目百済王の献じた仏像経論を小墾田の家に安置し,のちに向原の家を捨てて寺として移安したのが起源。日本最初の仏教寺院として元興寺と称したが,平城遷都に際して新京に移転したため衰微した。江戸時代に旧跡に一宇を建て広厳寺と称したという。現在は同所の向原寺の境内に礎石が残っている。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典)

(注)私房:僧・尼の住む私室。

 

 

◆明日香河 逝廻丘之 秋芽子者 今日零雨尓 落香過奈牟

                 (丹比國人真人 巻八 一五五七)

 

≪書き下し≫明日香川(あすかがは)行き廻(み)る岡の秋萩は今日(けふ)降る雨に散りか過ぎなむ

 

(訳)明日香川が巡り流れている岡の秋萩は、今日降るこの雨で散り果ててしまうのではなかろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首丹比真人國人」<右の一首は丹比真人國人>である。

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると。「『紫陽花(アジサイ)』は山野に自生し、庭木としても好まれる落葉低木。原種はわが国の海岸に自生する額紫陽花で、現在の球形紫陽花は改良品種。アジサイのアジ(アズ)は集まるの意味、サイは真の藍(サノアイ)の事。青い花がかたまって咲く様子から付いた名前で『集真の藍(アズサノアイ)』からアジサイとなった。(後略)」と書かれている。

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ガクアジサイ」 weblio辞書 デジタル大辞泉より引用させていただきました。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉