―その1451-
●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。
●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P19)にある。
●歌をみていこう。
◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟
(橘諸兄 巻二十 四四四八)
≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ
(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように
(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。
(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
四四四六から四四四八歌の歌群の題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅三首」<同じ月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。
四四四六から四四四八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その467)」で紹介している。
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丹比国人真人の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1170)」で紹介している。
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丹比国人真人は、天平勝宝九年(756年)の橘奈良麻呂の変に連座して、当時遠江守であったが、伊豆国へ配流されたのである。
―その1452―
●歌は、「藤波の影なす海の底清み沈く石をも玉とぞ我が見る」である。
●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P20)にある。
●歌をみておこう。
◆藤奈美乃 影成海之 底清美 之都久石乎毛 珠等曽吾見流
(大伴家持 巻十九 四一九九)
≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の影なす海の底清(きよ)み沈(しづ)く石をも玉とぞ我が見る
(訳)藤の花房が影を映している海、その水底までが清く澄んでいるので、沈んでいる石も、真珠だと私はみてしまう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)ふぢなみ【藤波・藤浪】名詞:藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てていう語。転じて、藤および藤の花。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)たま【玉・珠】名詞:①宝石。宝玉。②真珠。③〔多く「たまの」の形で体言を修飾して〕美しいものの形容にいう語。④涙・露など、形のまるいもののたとえ。(学研)
四一九九~四二〇二歌の題詞は、「十二日遊覧布勢水海船泊於多祜灣望見藤花各述懐作歌四首」<十二日に、布勢水海(ふせのみづうみ)に遊覧するに、多祜(たこ)の湾(うら)に舟泊(ふなどま)りす。藤の花を望み見て、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌四首>である。
この歌群ならびに「藤波」を詠った歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1371)」で紹介している。
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「石をも玉とぞ我が見る」という思いに近い歌としては次の歌がある。
◆信濃奈流 知具麻能河泊能 左射礼思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟
(作者未詳 巻十四 三四〇〇)
≪書き下し≫信濃(しなの)なる千曲(ちぐま)の川のさざれ石(し)も君し踏みてば玉と拾(ひろ)はむ
(訳)信濃の千曲の川の細(さざ)れ石も、いとしい我が君が踏んだ石なら、玉と思ってひらいましょう。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1431)」で紹介している。
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「玉」についてみてみよう。
上の(注)にあったように、「①宝石。宝玉。②真珠。③〔多く「たまの」の形で体言を修飾して〕美しいものの形容にいう語。④涙・露など、形のまるいもののたとえ。(学研)」で使われている。
■⓵の宝石、宝玉として使われているのは、憶良の八〇三歌である。
◆銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母
(山上憶良 巻五 八〇三)
≪書き下し≫銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに)まされる宝子にしかめやも
(訳)銀も金も玉も、どうして、何よりすぐれた宝である子に及ぼうか。及びはしないのだ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)なにせむに【何為むに】分類連語:どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。 ※なりたち代名詞「なに」+サ変動詞「す」の未然形+推量の助動詞「む」の連体形+格助詞「に」(学研)
(注)しかめやも【如かめやも】分類連語:及ぼうか、いや、及びはしない。※なりたち動詞「しく」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その477)」で紹介している。
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■②の例は、上記の四一九九歌であるが、他もみてみよう。
◆紫乃 粉滷乃海尓 潜鳥 珠潜出者 吾玉尓将為
(作者未詳 巻十六 三八七〇)
≪書き下し≫紫の粉潟(こかた)の海に潜(かづ)く鳥玉潜き出(で)ば我(わ)が玉にせむ
(訳)紫の粉(こ)ではないが、その粉潟(こかた)の海にもぐってあさる鳥、あの鳥が真珠を拾い出したら、それは俺の玉にしてしまおう。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より
(注)むらさきの【紫の】[枕]:① ムラサキの根で染めた色の美しいところから、「にほふ」にかかる。② 紫色が名高い色であったところから、地名「名高なたか」にかかる。③ 濃く染まる意から、「濃(こ)」と同音を含む地名「粉滷(こがた)」にかかる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)ここでは③の意
(注)「潜(かづ)く鳥」は親の譬え。(伊藤脚注)
(注)「玉潜き出(で)ば」:玉を拾い出したら。親が娘を無事育てることの譬えか。「玉」は女の譬え。(伊藤脚注)
■③の〔多く「たまの」の形で体言を修飾して〕美しいものの形容にいう語、に使われている言葉には、「玉藻」「玉桙」「玉垣」「玉襷「玉縵」「玉櫛笥」「玉箒」などがある。
次のような歌もある。
題詞は、「従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首」<吉野より蘿生(こけむ)す松が枝(え)を折り取りて遣(おく)る時に、額田王が奉(たてまつ)り入るる歌一首>である。
(注)蘿:古木に糸くず状に垂れ下がるサルオガセ。
(注)遣(おく)る:弓削皇子が枝に文を結んで送ったことをいう。
◆三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久
(額田王 巻二 一一三)
≪書き下し≫み吉野の玉松が枝(え)ははしきかも君が御言(みこと)を持ちて通(かよ)はく
(訳)み吉野の玉松の枝はまあ何といとしいこと。あなたのお言葉を持って通ってくるとは。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)はし【愛し】[形]:いとしい。愛すべきである。かわいらし(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)通はく:「通ふ」のク語法。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1041)」で紹介している。
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■④の涙・露など、形のまるいもののたとえ、の例としては次の歌があげられる。
◆棹壮鹿之 朝立野邊乃 秋芽子尓 玉跡見左右 置有白露
(大伴家持 巻八 一五九八)
≪書き下し≫さを鹿(しか)の朝立つ野辺(のへ)の秋萩に玉と見るまで置ける白露
(訳)雄鹿が朝佇(たたず)んでいる野辺の秋萩に、玉と見まごうばかりに置いている白露よ、ああ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1203)」で紹介している。
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真珠を「白玉」と詠っている歌もある。この歌の場合は「白玉」を自分の優れた才能として詠っている。みてみよう。
◆白珠者 人尓不所知 不知友縦 雖不知 吾之知有者 不知友任意
(元興寺之僧 巻六 一〇一八)
≪書き下し≫白玉(しらたま)は人に知らえず知らずともよし 知らずとも我(わ)れし知れらば知らずともよし
(訳)白玉はその真価を人に知られない。しかし、知らなくてもよい。人知らずとも、自分さえ価値を知っていたら、知らなくてもよい。(「同上)
(注)しらたま【白珠】:白色の美しい玉。また、真珠。愛人や愛児をたとえていうこともある(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その39改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」