■京都府木津川市山城町 山城郷土資料館万葉歌碑(1)(巻六 一〇五八)■
●歌をみていこう。
◆狛山尓 鳴霍公鳥 泉河 渡乎遠見 此間尓不通 一云渡遠哉不通有武
(作者未詳 巻六 一〇五八)
≪書き下し≫狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず<一には「渡り遠みか通はずあるらむ」とある>
(訳)狛山で鳴いている時鳥、その時鳥は、泉川の渡し場が遠いせいか、ここまでは通って来ない。<渡し場が遠いので通って来ないのか>(伊藤 博 著 「万葉集 二」(角川ソフィア文庫より)
(注)狛山:鹿背山の対岸の山。(伊藤脚注)
(注)泉川:木津川の古名。(伊藤脚注)
題詞は、「讃久迩新京歌二首幷短歌」<久邇(くに)に新京を讃(ほ)むる歌二首 幷(あは)せて短歌>である。長歌(一〇五〇歌)と反歌二首(一〇五一、一〇五二歌)の歌群と長歌(一〇五三歌)と反歌五首(一〇五四~一〇五八歌)の歌群で構成されている。
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この歌および長歌、ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その181改)」で紹介している。
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■京都府木津川市山城町 山城郷土資料館万葉歌碑(2)(巻六 一〇五六)■
●歌をみていこう。
◆「女+感」嬬 等之 續麻繋云 鹿脊之山 時之往者 京師跡成宿
( 作者未詳 巻六 一〇五六)
※「『女+感』+嬬」=をとめ
≪書き下し≫娘子(をとめ)らが続麻(うみを)懸(か)くといふ鹿背(かせ)の山(やま)時しゆければ都となりぬ
(訳)おとめたちが續(う)んだ麻糸を掛けるという桛(かせ)、その名にちなみの鹿背の山、この山のあたりも、時移り変わって、今や皇城の地となっている。(伊藤 博 著 「万葉集二」 角川ソフィア文庫より)
(注)上二句は序。「鹿背」を起す。つむいだ麻糸をかける桛(かせ)の意。(伊藤脚注)
(注の注)かせ【桛】名詞:つむいだ糸をかけて巻き取る道具。また、巻いてある糸。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うみを 【績み麻】名詞:紡(つむ)いだ麻糸。麻や苧(からむし)の茎を水にひたし、蒸してあら皮を取り、その細く裂いた繊維を長くより合わせて作った糸。「うみそ」とも。(学研)
(注の注)うむ【績む】(麻または苧(からむし)の繊維を)長くより合わせて糸にする。(学研)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その182改)」で紹介している。
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■京都府相楽郡和束町 活道ヶ丘公園万葉歌碑(巻三 四七六)■
●歌をみていこう。
◆吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山
(大伴家持 巻三 四七六)
≪書き下し≫我(わ)が大君(おほきみ)天(あめ)知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束(わづか)杣山(そまやま)
(訳)わが大君がここで天上をお治めになろうとは思いもかけなかったので、今までなおざりに見ていたのだった、この杣山(そまやま)の和束山(わづかやま)を。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)そまやま【杣山】名詞:材木として切り出すために植林した山。(学研)
(注)材木を切り出す山。そんな山が常宮となったという嘆き。(伊藤脚注)
題詞は、「十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首」<十六年甲申(きのえさる)の春の二月に、安積皇子(あさかのみこ)の薨(こう)ぜし時に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持が作る歌六首>である。
長歌(四七五歌)と反歌(四七六、四七七歌)は、左注に「右三首二月三日作歌」<右の三首は、二月の三日に作る歌>とあり、長歌(四七八歌)と反歌(四七九、四八〇歌)は、左注に、「右三首三月廿四日作歌」<右の三首は、三月の二十四日に作る歌>とある。
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この歌および長歌(四七五歌)と反歌(四七七歌)、ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その183改)」で紹介している。
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■京都府木津川市加茂町 恭仁大橋北詰万葉歌碑(巻六 一〇三七)■
●歌をみていこう。
◆今造 久迩乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之
(大伴家持 巻六 一〇三七)
≪書き下し≫今造る久邇の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
(訳)今新たに造っている久邇の都は、めぐる山や川がすがすがしいのを見ると、なるほど、ここに都をお定めになるのももっともなことだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久迩京作歌一首」<十五年癸未(みづのとひつじ)の秋の八月の十六日に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持、久邇の京を讃(ほ)めて作る歌一首>である。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その184改)」で紹介している。
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恭仁京については、拙稿ブログ「ザ・モーニングセット&フルーツデザート190226(万葉集時代区分・第4期<その1>)」で紹介している。
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■京都府木津川市山城町 山城総合文化センター(アスピアやましろ)万葉歌碑(巻十九 四二五七)■
●歌をみていこう。
◆手束弓 手尓取持而 朝獦尓 君者立之奴 多奈久良能野尓
(作者未詳 巻十九 四二五七)
≪書き下し≫手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝猟(あさがり)に君は立たしぬ棚倉の野に
(訳)手束弓をしっかりと手に取り持って、朝の猟場に我が君はお立ちになっている。ここ棚倉の野に。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)たつかゆみ【手束弓】:手に握り持つ弓。一説に握るところの太い弓。手束の弓。
(注)棚倉の野(たなくらのの)については、木津川市観光協会HP「木津川市ゆかりの万葉歌」に次のような説があると紹介されている。
③「棚倉孫神社周辺」説 京田辺市田辺棚倉付近
※ちなみに、アスピアやましろは、京都府木津川市山城町平尾前田24である。
題詞は、「十月廿二日於左大辨紀飯麻呂朝臣家宴歌三首」<十月二十二日に、左大辨(さだいべん)紀飯麻呂朝臣(きのいひまろあそみ)が家にして宴(うたげ)する歌三首>である。
左注は、「右一首治部卿船王傳誦之 久迩京都時歌 未詳作主也」<右の一首は、治部卿(ぢぶきょう)船王(ふねのおほきみ)伝誦(でんしょう)す。 久邇(くに)の京都(みやこ)の時の歌。 いまだ作主を詳(つばひ)らかにせず。>である。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その193)」で紹介している。
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■京都府相楽郡精華町 けいはんなプラザ前植込み万葉歌碑(巻八 一四三五)■
●歌をみていこう。
◆河津鳴 甘南備河尓 陰所見而 今香開良武 山振乃花
(厚見王 巻八 一四三五)
≪書き下し≫かはづ鳴く神なび川に影見えて今か咲くらむ山吹の花
(訳)河鹿の鳴く神なび川に、影を映して、今頃咲いていることであろうか。岸辺のあの山吹の花は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)神なび川:神なびの地を流れる川。飛鳥川とも竜田川ともいう。(伊藤脚注)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その185)」で紹介している。
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残念なことに、どちらも自然劣化により文字が完全に認識できない。英語版の右下隅の「8-1435」を手掛かりに歌にたどり着けたのである。
けいはんなプラザ前植込みには、もうひとつの万葉歌碑(英語版・日本語版)がある。
題詞は、「登筑波山歌一首幷短歌」<筑波山(つくばやま)に登る歌一首 幷せて短歌>の一七五七歌である。
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その186)」で紹介している。
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「筑波」は、筑波研究学園都市がある。そして歌碑が立てられている所は、関西文化学術研究都市(愛称:けいはんな学研都市)である。いすれも産・学・官の協力と連携のもと、ナショナルプロジェクトとして建設がすすめられたことからの連携により「筑波」を詠った歌が選ばれたのであろう。また国際交流を意識して英語版と日本語版が作られたのであろう。大きさがほぼA4サイズであり、その上、風化により読みづらくなっているのは残念である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「グーグルマップ」