●昨日、万葉集第4期について参考書を読んでいたが、聖武天皇が疫病や戦乱に社会不安が全国に広がっているのを一新しようと恭仁京遷都を決意とあった。これまで信楽にはよく遊びに行っていたので、163号線の加茂近くに「史跡恭仁宮跡 山城国分寺跡」の案内板は通りすがりに見ていた。大伴家持も天皇に随行して歌を詠んでいるともあったので、行ってみようとサンドイッチを作りながら考えていた。
デザートは、りんごの縦切りの間に、バナナとブドウを挟み込んで並べてみた。ユニークな仕上がりとなった。
午後、精華町の教育委員会生涯学習課主催の文化講座「木津川の渡し~渡し舟と街道の歴史~」を受講するつもりであったので、その前に恭仁京に行くことにした。
●万葉集時代区分第4期
第4期は、聖武天皇時代733年からである。
天平12年(740年)9月、大宰少弐藤原広嗣が叛乱の兵を挙げる。この戦乱の中にあって聖武天皇は伊勢への行幸を行った。この時、大伴家持も随行し歌(巻六 一〇三六)を残している。この乱は10月末に鎮圧された。このころは、全国的に天然痘が流行し、人々の不安は高まっていた。聖武天皇は、疫病や戦乱に見舞われ社会不安が全国的に高まっていた事態を一新すべく、平城京からの遷都を決意し、山背國相楽郡(やましろのくにさがらかのこおり)の甕原(みかのはら)離宮に都を移した。これが久邇京(くにきょう、以下、恭仁京と記す)である。
恭仁京は、規模も小さく740年から744年の難波宮遷都までの5年という短命な都であったが、諸国に国分寺・国分尼寺の建立を命じたり、墾田永年私財法など重要な政策を行った。
聖武天皇は、紫香楽宮に行幸、大仏建立を布告、その後、難波宮遷都を行う。天平17年(745年)再び都を平城京に戻した。752年大仏開眼供養が行われた。757年橘奈良麻呂の変が起こった。これにより大伴氏はほとんどが葬られてしまったのである。しかし、大伴家持は一人事変の圏外にあって身を守ったのである。
万葉集第4期は、天平文化が咲き誇ったものの、相次ぐ内乱やクーデターにより頽廃の時代となり、万葉集も大伴家持の「新しき(あらたしき)年の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)」(巻二十 四五一六)でもって幕を閉じるのである。
大伴家持については次回に譲るとして、恭仁京に関する歌を挙げてみる。
(題詞)十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久迩京作歌一首
◆今造(いまつくる) 久迩乃王都者(くにのみやこは) 山河之(やまかわの)
(大伴家持 巻六 一〇三七)
略訳「今新たに造っている恭仁の都は、山や川の美しさを見れば、ここで統治なさることはもっともなことだ」
(注)うべ:なるほど、もっともなこと
しらす:お治めになる、統治なさる。 知るの尊敬
(題詞)高丘河内連歌二首
◆故郷者(ふるさとは) 遠毛不有(とほくもあらず) 一重山(ひとえやま)
越我可良尓(こゆるがらに) 念曽吾世思(おもひぞあがせし)
(高丘河内 巻六 一〇三八)
略訳「故郷は遠いわけじゃない 山ひとつ越えるだけなのに 恋しくてならない」
(注)ここにいう「故郷」は平城京のことで恭仁宮で詠んだ歌である。
天平16年(744年)、聖武天皇により恭仁宮から難波宮に都が移された後、同18年(746年)、宮跡の中心部は、当時全国的な規模で進められていた国分寺建立の動きに合わせて「山城国分寺」として生まれ変わったのである。
次の写真の碑は、国分寺の七重塔の礎石に建てられたものである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「恭仁宮 よみがえる古代の都」(パンフレット) 木津川市