万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

ザ・モーニングセット&フルーツデザート190227(万葉の時代区分・第4期<その2>)

●食パンを買うのを忘れていた。サンドイッチを作ろうと台所に立ったら食パンがない。コンビニまで買いに行く。食パンを買ったが、棚のサンドイッチに目が行く。見た目も美しくおいしそうに見える。参考にすべきと買うことに。実に繊細な出来栄え。感心することしきりである。ダイエットのためマヨネースを使っていないが、市販品はしっかりと使っているのでバインダー効果も抜群。もちろん味もしっかり。今後の参考までという思いで食した。

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2月27日のモーニングセット

 デザートは、八朔の横切りを4分割し真ん中に並べた。周囲にリンゴの縦切りを配し、バナナ、ブドウ、干しぶどうで飾り付けた。

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2月27日のデザート

 万葉集を語るには大伴家持を取り上げる必要がある。第4期の代表的歌人でもあり、万葉集の編者としても考えられているので家持に焦点を当ててみた。

 

万葉集時代区分・第4期(その2)

 万葉集の編者については諸説あるが、大伴家持説が有力である。第4期の代表歌人としても家持はずば抜けている。大伴家持を通して第4期を見ていきたいと思う。

 

 天平10年(737年)、家持は内舎人に任官される。内舎人とは、名家の子弟から選ばれ、天皇の側近として仕えるものである。名門大伴氏の若き当主として自由な青春を謳歌するのである。女性遍歴に関する歌が数多く万葉集には残されている。

 大伴坂上郎女、藤原郎女、坂上大嬢、笠女郎、山口女王、大神女郎などの名が挙がっている。

 笠女郎(かさのいらつめ)は、情熱的で歌才にも秀でており第4期の代表的歌人としても挙げられる存在である。家持に贈った歌二九首が万葉集に収録されている。

 

 天平10年冬家持は、橘諸兄の長子奈良麻呂の主催する宴席での歌11首(巻八 一五八一~一五九一)が収録されている。

 

 天平12年(740年)9月、大宰少弐藤原広嗣が叛乱の兵を挙げる。この戦乱の中にあって聖武天皇は伊勢への行幸を行い、さらに恭仁京遷都を行った。この時、大伴家持随行し伊勢國(巻六 一〇二九、一〇三二、一〇三三)、美濃國(巻六 一〇三五、一〇三六)、恭仁京(巻六 一〇三七)に於いて歌を残している。

 

 天平17年(745年)聖武天皇は、難波宮から再び都を平城京に戻した。

 天平18年(746年)から天平勝宝3年(751年)大伴家持越中国守となって5年間赴任したのである。

 犬養 孝氏はその著で、「越中生活いうのは、歌人家持にとってこれほど大事な時はなかった」「都における権力争いの苦悩から離れていた。もし都にいれば、家持は藤原氏の専横ぶりに神経が疲れてしまうでしょう」「越中生活のおかげで美のピークを迎えることができたのでは」と書いておられる。家持の生涯の歌の数は約450首で、越中では約220首歌っていることからもうかがえる。

 

 天平勝宝3年(751年)家持は少納言となり、都に戻る。しかし、藤原仲麻呂が勢力を拡大し、頼るべき橘諸兄の影響力は薄くなっていた。

 天平勝宝8年2月(756年)橘諸兄が官を退き、5月聖武天皇崩御される。その8日後に、大伴氏の長老格大伴古慈斐(こしび)が拘禁された。大伴氏らに対する仲麻呂のあからさまな挑戦であった。

 この危機に際して、家持は、「族(やから)に喩(さと)す歌」を詠んで、大伴氏の家の由来を説き、その名を絶やさぬよう自重すべきと訴えた。

 

 題詞は「喩族歌一首幷短歌」

◆比左加多能(ひさかたの) 安麻能刀比良伎(あまのとひらき) 多可知保乃(たかちほの) 多氣尓阿毛理之(たけにあもりし) 須賣呂伎能(すめらきの) 可未能御代欲利(かみのみよより) 波自由美乎(はじゆみを) 多尓藝利母多之(たにぎりもたし) 麻可胡也乎(まかごやを) 多婆左美蘇倍弖(たばさみそへて) 於保久米能(おほくめの)麻須良多礽乎ゝ(ますらたけをを) 佐吉尓多弖(さきにたて) 由伎登於保世(ゆきとりおほせ) 山河乎(やまがはを) 伊波祢左久美弖(いはねさくみて) 布美等保利(ふみとほり) 久尓麻藝之都ゝ(くにまぎしつつ) 知波夜夫流(ちはやぶる) 神乎許等牟氣(かみをことむけ) 麻都呂倍奴(まつろはぬ) 比等乎母夜波之(ひとをもやはし) 波吉伎欲米(はききよめ) 都可倍麻都里弖(つかへまつりて) 安吉豆之萬(あきつしま) 夜萬登能久尓乃(やまとのくにの) 可之波良能(かしはらの) 宇祢備乃宮尓(うねびのみやこ) 美也婆之良(みやばしら) 布刀之利多弖氐(ふとしりたてて) 安米能之多(あめのした) 之良志賣之礽流(しらしめしける) 須賣呂伎能(すめろきの) 安麻能日継等(あまのひつぎと) 都藝弖久流(つぎてくる) 伎美能御代ゝゝ(きみのみよみよ)加久左波奴(かくさはめ) 安加吉許己呂乎(あかきこころを) 須賣良弊尓(すめらへに) 伎波米都久之弖(きはめつくして) 都加倍久流(つかへくる) 於夜能都可佐等(おやのつかさと) 許等太弖氐(ことだてて) 佐豆氣多麻弊流(さづけたまへる) 宇美乃古能(うみのこの) 伊也都藝都岐尓(いやつぎつぎに) 美流比等乃(みるひとの) 可多里都藝弖氐(かたりつぎてて) 佐久比等能(さくひとの) 可我見尓世武乎(かがみにせむを) 安多良之伎(あたらしき) 吉用伎曽乃名曽(きよきそのなそ) 於煩呂加尓(おぼろかに) 己許呂於母比弖(こころおもひて) 牟奈許等母(むなことも) 於夜乃名多都奈(おやのなたつな) 大伴乃(おほともの) 宇治等名尓於敝流(うぢとなにおへる) 麻須良乎能等母(ますらをのとも)

                     大伴家持(巻二〇 四四六五)

 

 長歌の終わりの部分を略訳する。

 

「吉用伎曽乃名曽(きよきそのなそ) 於煩呂加尓(おぼろかに) 己許呂於母比弖(こころおもひて) 牟奈許等母(むなことも) 於夜乃名多都奈(おやのなたつな) 大伴乃(おほともの) 宇治等名尓於敝流(うぢとなにおへる) 麻須良乎能等母(ますらをのとも)」

 

 略訳「清い家名である、おろそかにしないようこころして、たとえ空事であっても 伝来の名を絶やすな 大伴の氏と名に負った立派な男子たる仲間たちよ」

 

◆之奇志麻乃(しきしまの) 夜末等能久尓ゝ(やまとのくにに) 安氣良氣伎(あきらけし) 名尓於布等毛能乎(なにおふとものを) 己許呂都刀米与(こころつとめよ)

                     大伴家持(巻二〇 四四六六)

 

略訳「大和の国に明らかなように、名誉ある(大伴一族よ)こころせよ」

 

 天平勝宝九年(757年)正月、橘諸兄が世を去る。諸兄の長子奈良麻呂は、大伴氏・佐伯氏らと仲麻呂打倒の計画を進めていたが、7月密告されことごとく捕えられた。これにより、大伴氏・佐伯氏らはほとんど根こそぎに葬られた。

 しかし、大伴家持は事件の圏外にあってひとり身を守ったのである。

 

 天平宝字2年(758年)8月、藤原仲麻呂は右大臣に昇進し「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜るのである。家持は7月に因幡国守に任ぜられ赴任していった。

 天平宝字3年(759年)正月、因幡の国庁で新年の賀宴が催され、家持は新年を寿ぐ歌を詠んだのである。

 

◆新しき(あらたしき)都市の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)げ吉事(よごと)

                       大伴家持(巻二〇 四五一六)

 

 この一首が万葉集最後の歌である。

 万葉の時代は終焉を迎えたのである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「萬葉集相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房