万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1252,1253)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(50,51)―万葉集 巻二十 四四六五、巻六 九四〇

―その1252-

●歌は、「・・・すめろきの神の御代よりはじ弓を手握り持たし・・・」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(50)万葉歌碑<プレート>(大伴家持



●歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(50)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「喩族歌一首并短歌」<族(うがら)を喩(さと)す歌一首并(あは)せて短歌>である。

 

◆比左加多能 安麻能刀比良伎 多可知保乃 多氣尓阿毛理之 須賣呂伎能 可未能御代欲利 波自由美乎 多尓藝利母多之 麻可胡也乎 多婆左美蘇倍弖 於保久米能 麻須良多祁乎ゝ 佐吉尓多弖 由伎登利於保世 山河乎 伊波祢左久美弖 布美等保利 久尓麻藝之都ゝ 知波夜夫流 神乎許等牟氣 麻都呂倍奴 比等乎母夜波之 波吉伎欲米 都可倍麻都里弖 安吉豆之萬 夜萬登能久尓乃 可之波良能 宇祢備乃宮尓 美也婆之良 布刀之利多弖氐 安米能之多 之良志賣之祁流 須賣呂伎能 安麻能日継等 都藝弖久流 伎美能御代ゝゝ 加久左波奴 安加吉許己呂乎 須賣良弊尓 伎波米都久之弖 都加倍久流 於夜能都可佐等 許等太弖氐 佐豆氣多麻敝流 宇美乃古能 伊也都藝都岐尓 美流比等乃 可多里都藝弖氐 伎久比等能 可我見尓世武乎 安多良之伎 吉用伎曽乃名曽 於煩呂加尓 己許呂於母比弖 牟奈許等母 於夜乃名多都奈 大伴乃 宇治等名尓於敝流 麻須良乎能等母

      (大伴家持 巻二十 四四六五)

 

≪書き下し≫ひさかたの 天(あま)の門(と)開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし すめろきの 神の御代(みよ)より はじ弓を 手(た)握(にぎ)り持たし 真鹿子矢(まかごや)を 手挟(たばさ)み添へて 大久米(おほくめ)の ますらたけをを 先に立て 靫(ゆき)取り負(お)ほせ 山川を 岩根(いはね)さくみて 踏み通り 国(くに)求(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向(ことむ)け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕(つか)へまつりて 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原の 畝傍(うねび)の宮に 宮柱(みやばしら) 太知(ふとし)り立てて 天の下 知らしめしける 天皇(すめろき)の 天の日継(ひつぎ)と 継ぎてくる 君の御代(みよ)御代(みよ) 隠さはぬ 明(あか)き心を 皇辺(すめらへ)に 極(きは)め尽して 仕へくる 祖(おや)の官(つかさ)と 言(こと)立(だ)てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継(つ)ぎ継(つ)ぎに 見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鏡にせむを あたらしき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 空言(むなこと)も 祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏(うぢ)と名に負(お)へる ますらをの伴(とも)

 

(訳)遥かなる天つ空の戸、高天原(たかまのはら)の天の戸を開いて、葦原(あしはら)の国高千穂(たかちほ)の岳(たけ)に天降(あまくだ)られた皇祖(すめろき)の神の御代から、はじ木の弓を手にしっかりと握ってお持ちになり、真鹿子矢(まかごや)を手挟み添え、大久米のますら健男(たけお)を前に立てて靫を背負わせ、山も川も、岩根を押し分けて踏み通り、居(い)つくべき国を探し求めては、荒ぶる神々をさとし、従わぬ人びとをも柔らげ、この国を掃き清めお仕え申し上げて、蜻蛉島大和の国の橿原の畝傍の山に、宮柱を太々と構えて天の下をお治めになった天皇(すめろき)、その尊い御末(みすえ)として引き継いでは繰り返す大君の御代御代のその御代ごとに、曇りのない誠の心をありったけ日継ぎの君に捧げつくして、ずっとお仕え申してきた先祖代々の大伴の家の役目であるぞと、ことさらお言葉に言い表わして、我が大君がお授け下さった、その祖(おや)の役目を継ぎ来り継ぎ行く子々孫々、その子々孫々のいよいよ相続くように、いや継ぎ継ぎに、目に見る人に語り継ぎに讃め伝えて、耳に聞く人は末々の手本(かがみ)にもしようものを、ああ、貶(おとし)めてはもったいない清らかな継ぎ来り継ぎ行くべき名なのだ。おろそかに軽く考えて、かりそめにも祖先の名を絶やすでないぞ。大伴の氏と、由来高く清き名に支えられている、ますらおたちよ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)はじゆみ【櫨弓】〘名〙: 櫨(山漆)で作った弓。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)真鹿子矢(まかごや):鹿の角などを用いた矢か。

(注)ますらたけを【益荒猛男】名詞:勇ましくてりっぱな男。勇猛な武士。 ※「益荒男(ますらを)」を強めた語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ゆき【靫・靱】名詞:武具の一種。細長い箱型をした、矢を携行する道具で、中に矢を差し入れて背負う。 ※中世以降は「ゆぎ」。(学研)

(注)いはね【岩根】名詞:大きな岩。「いはがね」とも。(学研)

(注)さくむ[動]:岩や木の間を押し分け、踏み分けて行く。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)まぐ【覓ぐ・求ぐ】他動詞:探し求める。尋ねる。 ※上代語。(学研)

(注)ちはやぶる【千早振る】:上二段動詞「ちはやぶ」の連体形。たけだけしい。荒々しい。のちには「ちはやふる」とも。(学研)

(注の注)ちはやぶる【千早振る】分類枕詞:①荒々しい「氏(うぢ)」ということから、地名「宇治(うぢ)」にかかる。②荒々しい神ということから、「神」および「神」を含む語、「神」の名、「神社」の名などにかかる。(学研)

(注)ことむく【言向く】他動詞:説得して服従させる。平定する。(学研)

(注)まつろ・ふ 【服ふ・順ふ】他動詞:服従させる。従わせる。仕えさせる。 ⇒参考動詞「まつ(奉)る」の未然形に反復継続の助動詞「ふ」が付いた「まつらふ」の変化した語。貢ぎ物を献上し続けるの意から(学研)

(注)みやばしら【宮柱】名詞:宮殿や神殿の柱。皇居の柱。(学研)

(注)ふとしる【太知る・太領る】他動詞:(宮殿の柱を)しっかりと造る。 ※「ふと」は接頭語、「しる」は領有する意。上代語。(学研)

(注)あたらし【惜し】もったいない。惜しい。※参考「あたらし」と「をし」の違い 「を(惜)し」が自分のことについていうのに対し、「あたらし」は外から客観的に見た気持ちをいう。(学研)

(注)おほろかなり【凡ろかなり】形容動詞:いいかげんだ。なおざりだ。「おぼろかなり」とも。 ※上代語。(学研)

(注)むなこと【空言・虚言】名詞:うそ。裏付けのない言葉。(学研)

 

 短歌(四四六六、四四六七歌)もみてみよう。

◆之奇志麻乃 夜末等能久尓ゝ 安氣良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与

       (大伴家持 巻二十 四四六六)

 

≪書き下し≫磯城島(しきしま)の大和(やまと)の国に明(あき)らけき名に負(お)ふ伴(とも)の男(を)心つとめよ

 

(訳)磯城島の大和の国に、隠れもなき由来高き名に支えられている大伴の者どもよ、心奮い立たせて努めよ。(同上)

(注)しきしまの【磯城島の・敷島の】分類枕詞:「磯城島」の宮がある国の意で国名「大和」に、また、転じて、日本国を表す「やまと」にかかる。(学研)

(注)あきらけし【明らけし】形容詞:①清らかだ。けがれがない。②はっきりしている。③賢明だ。聡明(そうめい)だ。(学研))

 

 

◆都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之師曽乃名曽                           (大伴家持 巻二十 四四六七)

 

≪書き下し≫剣大刀(つるぎたち)いよよ磨(と)ぐべしいにしへゆさやけく負ひて来(き)にしその名ぞ

 

(訳)剣太刀を研ぐというではないが心をいよいよ磨ぎ澄まして張りつめるべきだ。遠く遥かな御代から紛れもなく負い持って来た大伴という由来高き名なのだ。(同上)

(注)いよよ【愈】副詞:なおその上に。いよいよ。いっそう。(学研)

(注)ゆ 格助詞:《接続》体言、活用語の連体形に付く。①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段〕…で。…によって。④〔比較の基準〕…より。 ⇒ 参考 上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。(学研)

(注)さやけく負ひて来にし:ありありと負い持ってきた

 

(注)さやけし【清けし・明けし】形容詞:①明るい。明るくてすがすがしい。清い。②すがすがしい。きよく澄んでいる。 ⇒ 参考 「さやけし」と「きよし」の違い 「さやけし」は、「光・音などが澄んでいて、また明るくて、すがすがしいようす」を表し、「きよし」も同様の意味を表すが、「さやけし」は対象から受ける感じ、「きよし」は対象そのもののようすをいうことが多い。(学研)

 

左注は、「右縁淡海真人三船讒言出雲守大伴古慈斐宿祢解任 是以家持作此歌也」<右は、淡海真人三船(あふみのまひとみふね)が讒言(ざんげん)によりて、出雲守(いづものかみ)大伴古慈斐宿禰(おほとものこしびのすくね)、任を解(と)かゆ。ここをもちて、家持この歌を作る>である。

(注)大伴古慈斐宿禰:当時大伴氏の年長者。

伊藤氏は、脚注において「聖武天皇崩後八日目、五月十日の事件。ただし続日本紀には、藤原仲麻呂の讒言で古慈斐と三船が捕えられたとある。仲麻呂に求められて讒言した三船が、その後仲麻呂に讒言されたのが真相か。」と書かれている。

 

 家持は、天平勝宝三年(751年)に少納言に任ぜられ越中生活に終わりをつげ都にもどるのである。しかし、大伴家と橘家があがめる聖武天皇は病気がちで、力を持たれなくなっていた。そして光明皇太后孝謙天皇藤原仲麻呂の勢力が台頭してくるのである。光明皇太后藤原不比等の娘で、孝謙天皇不比等の孫にあたる。仲麻呂不比等の孫であるので藤原氏が権力を握って来るのである。

 

 天平勝宝八年(756年)大伴家がよりどころにしていた橘諸兄が失脚、聖武上皇崩御され、大伴一族の年長者で国守級の大伴古慈悲が讒言により朝廷を誹謗したとして捕えられる解任されたこの事件は、大伴氏一族に大きな衝撃を与えたのである。藤原仲麻呂の大伴氏ら守旧派に対するあからさまな挑戦であった。

六月十七日、家持は危機感から「族(やから)を喩(さと)す歌」を詠み、自重を訴えているが、この歌が一族に対していかほどの力を持ったのだろう。結果的に家持の独白であり、力をもって反仲麻呂に立ち上がる意思のないことを表明したにすぎなかったのである。

 

 同日、家持は、題詞「臥病悲無常欲修道作歌二首」<病に臥して無常(むじやうを悲しび、道を修めむと欲(おも)ひて作る歌二首>を詠んでいる。

(注)道:仏の道

 

◆宇都世美波 加受奈吉身奈利 夜麻加波乃 佐夜氣吉見都 美知乎多豆祢米

       (大伴家持 巻二十 四四六八)

 

≪書き下し≫うつせみは数なき身なり山川(やまかは)のさやけき見つつ道を尋(たづ)ねな

 

(訳)生きてこの世に在る人間というものはいくばくもないはかない命を持つ身なのだ。山川の澄みきった地に入り込んで悟りの道を辿(たど)って行きたいものだ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かずなし【数無し】形容詞:①物の数にも入らない。はかない。②数えきれないほど多い。無数である。(学研) ここでは①の意

(注)さやけし【清けし・明けし】形容詞:①明るい。明るくてすがすがしい。清い。②すがすがしい。きよく澄んでいる。 ⇒ 参考「さやけし」と「きよし」の違い 「さやけし」は、「光・音などが澄んでいて、また明るくて、すがすがしいようす」を表し、「きよし」も同様の意味を表すが、「さやけし」は対象から受ける感じ、「きよし」は対象そのもののようすをいうことが多い。(学研)

 

もう一首の方もみてみよう。

 

◆和多流日能 加氣尓伎保比弖 多豆祢弖奈 伎欲吉曽能美知 末多母安奈美無多米)

       (大伴家持 巻二十 四四六九)

 

≪書き下し≫渡る日の影に競(きほ)ひて尋(たづ)ねてな清(きよ)きその道またもあはむため

 

(訳)空を渡る日の光に負けずに日々勉めて、尋ね求めたいものだ、清らかな悟りの道を。再びあの佳き世に出逢(であ)うために。(同上)

(注)かげ【影・景】名詞:①(日・月・灯火などの)光。②(人や物の)姿・形。③(心に思い浮かべる)顔・姿。面影。④(人や物の)影。⑤(実体のない)影。(学研) ここでは①の意

(注)きほふ【競ふ】自動詞:①争う。張り合う。②先を争って散る。散り乱れる。(学研)

 

 さらに、題詞「願壽作歌一首」<寿(いのち)を願ひて作る歌一首>を詠んでいる。

 

◆美都煩奈須 可礼流身曽等波 之礼ゝ杼母 奈保之祢我比都 知等世能伊乃知乎

       (大伴家持 巻二十 四四七〇)

 

≪書き下し≫水泡(みつぼ)なす仮(か)れる身ぞとは知れれどもなほし願ひつ千年(ちとせ)の命(いのち)を

 

(訳)水粒(みずつぶ)のようなはかない身だとは、充分に承知しているけれども、それでもやはり願わずにはいられない。千年の命を。(同上)

(注)みつぼ>みなわ【水泡】名詞:水の泡。はかないものをたとえていう。 ※「水(み)な泡(あわ)」の変化した語。「な」は「の」の意の上代の格助詞。(学研)

 

 四四六五から四四七〇歌までの歌群の左注は「以前歌六首六月十七日大伴宿祢家持作」<以前(さき)の歌六首は、六月の十七日に大伴宿禰家持作る>である。

 

 この翌年、天平勝宝九年(757年)七月四日の橘奈良麻呂の変により佐伯氏・多治比氏・大伴氏らはほとんど根こそぎ葬られたのである。

 しかし、大伴家持は、事変の圏外にあって、ひとり身を守ったのである。

 「族を喩す歌」・短歌二首と、「無常を悲しびて道を修めむ」短歌二首ならびに「寿を願ひ」の短歌の大きなズレに家持の複雑な心境が読み取れるのである。

  

 橘奈良麻呂の変と大伴家持の立ち位置についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1044)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 奈良麻呂の変に巻き込まれた安宿王についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1120)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1253-

●歌は、「印南野の浅茅押しなべさ寝る夜の日長くしあれば家し偲はゆ」である。

 

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(50)万葉陶板歌碑(山部赤人

 

●万葉陶板歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(51)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆不欲見野乃 淺茅押靡 左宿夜之 氣長在者 家之小篠生

       (山部赤人 巻六 九四〇)

 

≪書き下し≫印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)押しなべさ寝(ぬ)る夜(よ)の日(け)長くしあれば家し偲はゆ

 

(訳)印南野の浅茅(あさじ)を押し靡(なび)かせて、共寝を願いながら旅寝する夜が幾日も続くので、家の妻のことが偲(しのば)れてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)浅茅:丈の低いかや

(注)さぬ【さ寝】自動詞①寝る。②男女が共寝をする。 ※「さ」は接頭語。(学研)

 

九三八(長歌)から九三九、九四〇、九四一歌(反歌)の歌群の題詞は、「山部宿祢赤人作歌一首 并短歌」<山部宿禰赤人が作る歌一首 并せて短歌>である。

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その628)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 山部赤人万葉集にあっての位置づけについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1149)」で紹介している。

 

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 稲見中央公園万葉の森の自然石の万葉歌碑5基(巻三 三〇三、巻七 一一七九、巻九 一七七二、巻十二 三一九八、巻二十 四三〇一)の内巻十二 三一九八歌を撮り忘れ、コロナ禍の拡大で外出がままならず、今回ようやく再訪問となり、とりこぼしていた万葉陶板歌碑や歌碑プレートを収めることができた。

 

 稲見万葉の森を後にして兵庫県加東市の播磨中央公園いしぶみの丘に向かったのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典