万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1120)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(80)―万葉集 巻二十 四三〇一

●歌は、「印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(80)万葉歌碑<プレート>(安宿王

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(80)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊奈美野之 安可良我之波ゝ 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之

               (安宿王 巻二十 四三〇一)

 

≪書き下し≫印南野(いなみの)の赤ら柏(がしは)は時はあれど君を我(あ)が思(も)ふ時はさねなし

 

(訳)印南野の赤ら柏は、赤らむ季節が定まっておりますが、大君を思う私の気持ちには、いついつと定まった時など、まったくありません。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 (注)印南野 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県加古川市から明石市付近。「否(いな)」と掛け詞(ことば)にしたり、「否」を引き出すため、序詞(じよことば)的な使い方をすることもある。稲日野(いなびの)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)さね 副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。②間違いなく。必ず。(学研)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その592)」で紹介している。

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播磨国守であった安宿王は、平城京における宴席の場で宮中の祭祀にも使われた「かしは」を「稲見野のあから柏」と見立て、天皇をたたえているのである。

 

  この歌の題詞は、「七日天皇太上天皇太后在於東常宮南大殿肆宴歌一首」<七日に、天皇(すめらみこと)、太上天皇(おほきすめらみこと)、皇太后(おほきさき)、東(ひむがし)の常宮(つねのみや)の南の大殿に在(いま)して肆宴(とよのあかり)したまふ歌一首>とある。

(注)天皇孝謙天皇

(注)太上天皇聖武上皇

(注)皇太后光明皇太后

(注)東常宮:天皇が日常生活を送る御殿、東院ともいう。

(注)とよのあかり【豊の明かり】名詞:①酒を飲んで顔が赤らむこと。②宴会。特に、宮中の宴会。③「とよのあかりのせちゑ」に同じ。 ※「とよ」は接頭語。「あかり」は顔が赤らむの意。(学研) ここでは②の意

 

左注は、「右一首播磨國守安宿王奏 古今未詳」<右の一首は、播磨(はりま)の国(くに)の守(かみ)安宿王(あすかべのおほきみ)奏(まを)す。 古今未詳>とある。

 

安宿王については、「コトバンク  講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に次のように書かれている。

「?-? 奈良時代,長屋王の子。母は藤原不比等(ふひと)の娘。長屋王の変の際は母の縁で罪をまぬかれ、玄蕃頭(げんばのかみ)、治部卿、播磨守(はりまのかみ)、讃岐(さぬきの)守などを歴任した。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)9年(757)橘(たちばなの)奈良麻呂の陰謀(橘奈良麻呂の変)にくわわり、佐渡に流される。のちゆるされ、宝亀(ほうき)4年高階真人(たかしなのまひと)の氏姓をさずかる。「万葉集」巻20に歌がおさめられている。」

 

 この歌は、天平勝宝六年(754年)に詠われている。

 

万葉集には、安宿王の歌は、もう一首収録されている。こちらもみてみよう。

 

 

題詞は、「八月十三日在内南安殿肆宴歌二首」<八月の十三日に、内(うち)の南(みなみ)の安殿(やすみどの)に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)したまふ歌二首>である。

(注)内(うち)の南(みなみ)の安殿(やすみどの):内裏の南の大安殿か。

 

 

◆乎等賣良我 多麻毛須蘇婢久 許能尓波尓 安伎可是不吉弖 波奈波知里都々

                  (安宿王 巻二十 四四五二)

 

≪書き下し≫娘子(をとめ)らが玉裳(たまも)裾引(すそび)くこの庭に秋風(あきかぜ)吹きて花は散りつつ

 

(訳)おとめたちが美しい裳裾を引いてそぞろに歩くこのお庭に、秋風が吹いて、花ははらはらと散り続けるばかり。

 

左注は、「右一首内匠頭兼播磨守正四位下安宿王奏之」<右の一首は、内匠頭(たくみのかみ)兼(けん)播磨守(はりまのかみ)正四位下安宿王(あすかべのおほきみ)奏す>である。

 

この歌は、天平勝宝七年(755年)八月十三日の歌である。

 

 

もう一首は、家持の歌である。但し「奏せず」とある。こちらもみてみよう。

 

◆安吉加是能 布伎古吉之家流 波奈能尓波 伎欲伎都久欲仁 美礼杼安賀奴香母

                  (大伴家持 巻二十 四四五三)

 

≪書き下し≫秋風の吹き扱(こ)き敷(し)ける花の庭清き月夜(つくよ)に見れど飽かぬかも

 

(訳)秋風が吹きしごいて一面に敷いた花の庭、このお庭は、清らかな月の光の中で、見ても見ても見飽きることがない。(同上)

(注)こく【扱く】他動詞:しごき落とす。むしり取る。(学研)

 

左注は、「右一首兵部少輔従五位上大伴宿祢家持 未奏」<右の一首は、兵部少輔従五位上大伴宿禰家持 未奏>である。

 

 家持の位階を記したのはこの歌のみで、奏上した安宿王の位階表記に準じたものと思われる。

 

そして、天平勝宝八年(756年)から天平宝字二年(758年)の3年間に歴史のとてつもない大きな波が、安宿王大伴家持を呑み込んで行くのである。

 

 大伴家持を飲み込んでいた歴史の渦についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1011)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

年表的におってみよう。(その1011)の年表に安宿王に関する項を追記)

天平勝宝八年(756年)

 二月:左大臣橘諸兄藤原仲麻呂一派に誣告され官を辞す

五月 三日:聖武太上天皇死去

 五月十一日:大伴古慈斐(こしび)が朝廷を誹謗したとして拘禁される

       (藤原仲麻呂の讒言)

 六月十七日:家持「族(やから)を喩す歌」(巻二十 四四六五~四四六七歌)を

詠み大伴一族の自重を促す

天平勝宝九年(757年)

 正月:橘諸兄死去

 六月二十八日 山背王の告発(山背王は長屋王の息子で、安宿王黄文王の弟)

 七月四日:橘奈良麻呂の変(佐伯氏・多治比氏・大伴氏はほとんど根こそぎ葬られる)

 八月:年号は天平宝字と改められる

天平宝字元年(757年)

 十一月:藤原仲麻呂勝利宣言の歌(巻二十 四四八七)

天平宝字二年(758年)

 六月十六日:家持、因幡守(かつての越中より格下)

 八月:孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。

藤原仲麻呂、右大臣に昇進「恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜わる

 

安宿王も弟山背王の敵対行為によって告発され、七月二日、藤原仲麻呂への密告の中で。「黄文王安宿王橘奈良麻呂大伴古麻呂」らの名が挙がったのである。

安宿王は妻子とともに佐渡に流されたのである。

 

 歴史の微振動を予知したかのように、安宿王は、四三〇一歌で天皇を讃え、二心無きことを詠っているのである。

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「(前略)カシワは『炊ぐ葉(カシグハ)』の意味で、古代宮廷の食物を盛る器の代用に使っていたらしく、調理方の人を『膳手(カシワデ)』と呼び、代々朝廷の食事を司った氏族を『膳部(カシワベ)』と称した。(後略)」と書かれている。

 今日の柏餅のカシワの葉はその流れという。

 

 

 

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「カシワの葉 (奈良市神功万葉の小径で撮影)」



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク  講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」