●歌は、「いにしへゆ人の言い来る老人のをつという水ぞ名に負ふ滝の瀬(大伴東人)」ならびに「田跡川の滝を清みかいにしへゆ宮仕へけむ多芸の野の上に(大伴家持)」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首」<美濃(みの)の國の多芸(たぎ)の行宮(かりみや)にして、大伴宿禰東人(おほとものくねあづまひと)が作る歌一首>
(注)多芸(たぎ)の行宮(かりみや):岐阜県養老郡養老町付近か。(伊藤脚注)
◆従古 人之言来流 老人之 變若云水曽 名尓負瀧之瀬
(大伴東人 巻六 一〇三四)
≪書き下し≫いにしへゆ人の言ひ来(け)る老人(おいひと)のをつといふ水ぞ名に負ふ滝の瀬
(訳)遠く古い時代から人が言い伝えて来た、老人の若返るという神聖な水であるぞ、名にし負うこの滝の瀬は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)をつ【復つ】自動詞:元に戻る。若返る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
家持の歌もみてみよう。
題詞は、「大伴宿祢家持作歌一首」<大伴宿禰家持が作る歌一首>である。
◆田跡河之 瀧乎清美香 従古 官仕兼 多藝乃野之上尓
(大伴家持 巻六 一〇三五)
≪書き下し≫田跡川(たどかわ)の瀧を清みかいにしへゆ宮仕(みやつか)へけむ多芸(たぎ)の野の上(へ)に
(訳)田跡川(たどかわ)の滝が清らかなので、遠く古い時代からこうして宮仕えしてきたのであろうか。ここ多芸の野の上で。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
注)田跡川:養老川。養老の滝に発し揖斐川に注ぐ。(伊藤脚注)
(注)みやづかふ【宮仕ふ】自動詞:①宮殿の造営に奉仕する。②宮中や貴人に奉公する。(学研)
この両歌については、天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱に端を発し、聖武天皇は、十月二十九日平城京を出発、伊勢・美濃。近江を経て久邇の宮に帰着、ここを都としたその間の歌(一〇二九から一〇三七歌)とともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その184改)」で紹介している。
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■■■岐阜県万葉歌碑巡り第二段■■■
10月18,19日に岐阜県の万葉歌碑巡りを行なった。
家に帰ってから、歌碑巡りのリストを整理した。あきれたことに山県市の甘南美寺の歌碑をすっぽ抜かしていたことが分かった。大大大チョンボである。
さらに、養老町HP「養老町の歴史文化資源」>養老公園石碑コース」の「12 万葉歌碑(養老公園石碑コース用)」の「詳細」を読んでみると、「養老公園の養老六古碑の一つです。聖武天皇は天平12年(740)養老へ行幸されました。この行幸に同行した大伴東人と大伴家持が元正天皇の養老美泉行幸を思い出し歌を詠みました。この歌は共に万葉集に収録されており、この碑は近世に笠松郡代所の15名が連名で建てました。」とあり、この歌碑は「養老公園マップ」に載っていない。
(注)養老六古碑:①樋口道順養老瀑泉詩歌碑、⑫万葉歌碑、⑮紀州藩主養老観瀑詩碑、⑱菊水銘碑、⑲近藤篤濃州養老泉詩碑、㉕滝川惟一養老瀑泉詩碑(養老町教育委員会HP)
先達の歌碑巡りの写真の掲載順や写真イメージからかなり大きな歌碑であると思い込み、この歌碑を「元正太上帝万葉歌碑」と勝手に思い込んでいたのであった。
結局19日は、「元正天皇行幸遺跡」周辺をあちこち歩きまわったが見つけることが出来なかったのは、それもそのはず、「12 万葉歌碑(養老公園石碑コース用)」を探さず、「元正太上帝万葉歌碑」を探したからである。
山県市の甘南美寺の歌碑と「12 万葉歌碑(養老公園石碑コース用)」さらには養老の滝前の歌碑、これらの歌碑リベンジは、ここまでくればもう執念みたいなもの。全国旅行支援を前提にすればコスト的には再挑戦すべきと判断、1週間後の25、26日の再挑戦となったのである。
時間はかかるが、経費削減のため、往復とも地道を利用することにしたのである。
家内に相談したところ、しぶしぶ承諾してくれたので決行である。
結局、原点に戻り「12」の碑の位置を確認し、そこから再挑戦を行なうことにしたのである。
養老公園入口駐車場に車を停める。簡単には行かなかったが、「北原白秋の歌碑」を手掛かりに「芭蕉句碑」のすぐそばの「12 万葉歌碑(養老公園石碑コース用)」の碑に巡り逢えたのである。
ブログや案内図等の写真から、身の丈以上はあるような石碑をこれまた勝手に想像していたのであるが、こじんまりした、しかし、歴史の重みを感じさせる碑であった。
大伴東人(おおとものあずまひと)については、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に次の様に書かれている。
「?-? 奈良時代の官吏。天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)従五位下となり武部(ぶぶ)(兵部(ひょうぶ))少輔(しょう)。少納言などをへて,弾正弼(だんじょうのひつ)となる。天平12年聖武天皇の東国行幸(ぎょうこう)の際,美濃(みの)(岐阜県)でうたった歌が『万葉集』巻6に1首ある。名は『あずまんど』ともよむ。
(注)弾正弼(だんじょうのひつ):① 弾正台①の次官。弾正の尹(かみ)を補佐するもの。もとは一名で、正五位下相当官であったが、のちに大弼(従四位下相当官)、一名が置かれ、今までの弼は少弼となった。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
東人の歌は、万葉集に収録されているのはこの一首のみである。
万葉歌碑に一つでも多く巡り合いたいという強い気持ちに駆られる。一種の収集癖に陥っているのかもしれない。
現地では、歌碑は歓迎してくれているのは間違いないのである。(と、これまた勝手に思っている。)
小生、やきものや骨董にも興味があり、特に「ぐいのみ」を取集している。
ある人に「ぐいのみの蒐集なんてきりがないだろう?」と言われたことを思い出した。
今は、歌碑の魅力にとりつかれているとしかいいようがないのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」