●歌は、「今造る久邇の都は山川のさやけさ見ればうべ知らすらし」である。
●歌をみていこう。
◆今造 久迩乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之
(大伴家持 巻六 一〇三七)
≪書き下し≫今造る久邇の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
(訳)今新たに造っている久邇の都は、めぐる山や川がすがすがしいのを見ると、なるほど、ここに都をお定めになるのももっともなことだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久迩京作歌一首」<十五年癸未(みづのとひつじ)の秋の八月の十六日に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持、久邇の京を讃(ほ)めて作る歌一首>である。
天平十二年(七四〇年)十月、藤原広嗣が大宰府から反乱を起こした。そのさなか、聖武天皇は伊勢に行幸を強行したのである。或る意味、逃避行である。十月末には反乱は鎮圧されたのであるが、逃避行は続いた。
天平十六年二月、聖武天皇は、難波宮を都と定める勅旨を発するも、翌十七年(七四五年)五月、再び都を平城京に戻すのである。この五年は、「彷徨五年」と呼ばれる
この逃避行には、右大臣橘諸兄が同行し、内舎人大伴家持も従い、行く先々の行宮で歌を残している。
この歌の前、巻六 一〇二九~一〇三六歌に恭仁京までの足取りが収録されている。
◎天平十二年 十月二十九日伊勢の国へ出発
◎ 同 十一月 二日河口の行宮到着
◎ 同 十二日出発
◆河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨
(大伴家持 巻六 一〇二九)
≪書き下し≫河口(かはぐち)の野辺(のべ)に廬(いほ)りて夜(よ)の経(ふ)れば妹(いも)が手本(たもと)し思ほゆるかも
(訳)河口の野辺で仮寝をしてもう幾晩も経(た)つので、あの子の手枕、そいつがやたら思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)河口の行宮:三重県津市白山町川口。
題詞は、「十二年庚辰冬十月依大宰少貮藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首」<十二年庚辰(かのえたつ)の冬の十月に、依大宰少貮(だざいせうに)藤原朝臣廣嗣(ふぢはらのあそみひろつぐ)、謀反(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)すによりて、伊勢(いせ)の国に幸(いでま)す時に、河口(かはぐち)の行宮(かりみや)にして、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持が作る歌一首>である。
◎天平十二年十一月 二十三日朝明の行宮到着
◆妹尓戀 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷尓 多頭鳴渡
(聖武天皇 巻六 一〇三〇)
≪書き下し≫妹(いも)に恋ひ吾(あが)の松原見わたせば潮干(しほひ)の潟(かた)に 鶴(たづ)鳴き渡る
(訳)あの子が恋い焦がれて逢(あ)える日を我(わ)が待つという吾(あが)の松原、この松原を見渡すと、潮が引いた干潟に向かって、鶴が鳴き渡っている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「天皇御製歌一首」<天皇(すめらのみこと)の御製歌一首>である。
左注は、「右一首今案 吾松原在三重郡 相去河口行宮遠矣 若疑御在朝明行宮之時所製御歌 傳者誤之歟」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、吾の松原は三重(みへ)の郡(こほり)にあり。(かはぐち)の行宮(かりみや)を相去ること遠し。けだし朝明(あさあけ)の行宮に御在(いま)す時に製(つく)らす御歌なるを、伝ふる者誤(あやま)れるか。>である。
(注)朝明(あさあけ)の行宮:三重郡朝日町付近か。
◆後尓之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 好住跡其念
(丹比屋主真人 巻六 一〇三一)
≪書き下し≫後(おく)れにし人を思はく思(しで)の崎(さき)木綿(ゆふ)取り垂(し)でて幸(さき)くとぞ思ふ
(訳)あとに残っている人を思っては、思泥の崎の名のように、木綿(ゆう)を取り垂でて、無事であってくれと神にお祈りしている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「丹比屋主真人歌一首」<丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が歌一首>である。
左注は、「右案此歌者不有此行之作乎 所以然言 勅大夫従河口行宮還京勿令従駕焉 何有詠思泥埼作歌哉」<右は、案(かむが)ふるに、この歌はこの行(たび)の作にあらじか。しか言う故(ゆゑ)は、大夫(まへつきみ)に勅(みことのり)して河口の行宮より京に還(かへ)し、従駕(おほみとも)せしむることなし。いかにして思泥(しで)の崎にして作る歌を詠むことあらむ>である。
(大伴家持 巻六 一〇三二)
≪書き下し≫大君(おほきみ)の行幸(みゆき)のまにま我妹子(わぎもこ)が手枕(たまくら)まかず月ぞ経(へ)にける
(訳)大君の行幸につき従って、いとしいあの子の手枕をしないままに、月が替わってしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「狭殘行宮大伴宿祢家持作歌二首」<狭殘(ささ)の行宮(かりみや)にして、大伴宿祢家持が作る歌二首>である。
(注)狭殘行宮:所在未詳
◆御食國 志麻乃海部有之 真熊野之 小船尓乗而 奥部榜所見
(大伴家持 巻六 一〇三三)
≪書き下し≫御食(みけ)つ国志摩(しま)の海人(あま)ならしま熊野(くまの)の小舟(をぶね)に乗りて沖辺(おきへ)漕ぐ見ゆ
(訳)あれは、御食(みけ)つ国、志摩の海人であるらしい。熊野型の小舟に乗って、今しも沖の方を漕いでいる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
◎天平十二年 十一月 二十六日から月末ごろまで多芸行宮滞在
◆従古 人之言来流 老人之 變若云水曽 名尓負瀧之瀬
(大伴東人 巻六 一〇三四)
≪書き下し≫いにしへゆ人の言ひ来(け)る老人(おいひと)のをつといふ水ぞ名に負ふ滝の瀬
(訳)遠く古い時代から人が言い伝えて来た、老人の若返るという神聖な水であるぞ、名にし負うこの滝の瀬は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首」<美濃(みの)の國の多芸(たぎ)の行宮(かりみや)にして、大伴宿禰東人(おほとものくねあづまひと)が作る歌一首>
(注)多芸(たぎ)の行宮(かりみや):岐阜県養老郡養老町付近か。
◆田跡河之 瀧乎清美香 従古 官仕兼 多藝乃野之上尓
(大伴家持 巻六 一〇三五)
≪書き下し≫田跡川(たどかわ)の瀧を清みかいにしへゆ宮仕(みやつか)へけむ多芸(たぎ)の野の上(へ)に
(訳)田跡川(たどかわ)の滝が清らかなので、遠く古い時代からこうして宮仕えしてきたのであろうか。ここ多芸の野の上で。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「大伴宿祢家持作歌一首」<大伴宿禰家持が作る歌一首>である。
◎天平十二年 十二月 一日不破行宮到着
◎ 同 同 六日出発
◆關無者 還尓谷藻 打行而 妹之手枕 巻手宿益乎
(大伴家持 巻六 一〇三六)
≪書き下し≫関なくは帰りにだにもうち行きて妹(いも)が手枕(たまくら)まきて寝ましを
(訳)この不破の関さえなかったら、とんぼ帰りででも馬を鞭打って飛んで行き、あの子の手枕をして寝ることができように。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)関:不破の関
題詞は、「不破行宮大伴宿祢家持作歌一首」<不破(ふは)の行宮(かりみや)にして、大伴宿禰家持が作る歌一首>である。
◎天平十二年 十二月 十五日久邇の宮帰着、ここを都とした。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
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