万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1453、1454)―愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(1、2)―万葉集 巻一 二三、二四

―その1453―

●歌は、「打ち麻を麻続の王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(1)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌」<麻続王(をみのおおきみ)、伊勢の国の伊良虞(いらご)の島に流さゆる時に、人の哀傷(かな)しびて作る歌>である。

(注)麻続王(おみのおおきみ):?-? 飛鳥(あすか)時代の皇族。

日本書紀」によれば、天武天皇4年(675)罪により因幡(いなば)(鳥取県)に流罪となり,ふたりの王子も伊豆(いず)島と血鹿(ちかの)島(長崎県)に流されたとある。「万葉集」にこれをかなしむ歌があり、配流地は伊勢(いせ)(三重県)とされている。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)伊良虞:愛知県渥美半島西端の伊良湖岬で、実際は三河の国所属。(伊藤脚注)

 

◆打麻乎 麻續王 白水郎有哉 射等篭荷四間乃 珠藻苅麻須

       (作者未詳 巻一 二三)

 

≪書き下し≫打ち麻(そ)を麻続(をみ)の王(おほきみ)海人(あま)なれや伊良虞(いらご)の島の玉藻(たまも)刈ります

 

(訳)打ち柔らげられた麻、その麻続<麻績>(おみの)王は海人なのかな、そうではないのに海人そっくりに、伊良虞の島の玉藻を刈っていらっしゃる。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)うちそ【打ち麻】名詞:打って柔らかくした麻。 ※「そ」は「麻(あさ)」の古名。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うちそを【打ち麻を】[枕]:《「を」は間投助詞》「をみ」にかかる。うつそを。(goo辞書)

二三歌書き下し解説板

 

 

―その1454―

●歌は、「うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(2)万葉歌碑(麻績王)



●歌碑は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食

       (麻続王 巻一 二四)

 

≪書き下し≫うつせみの命(いのち)を惜しみ波に濡(ぬ)れ伊良虞の島の玉藻刈り食(は)む

 

(訳)この現(うつ)し世(よ)の命の惜しさに、波に濡れながら、私は伊良虞の島の、玉藻を刈って食べています。(同上)

(注)うつせみの 分類枕詞:この世(の人)の意で、「世(よ)」「人」「命」「身」にかかる。 ⇒参考:中古以降、「空蟬(=蟬のぬけ殻)」の連想から、特に、はかないこの世の意の「よ(世・代)」にかかるようになった。(学研)

 

左注は、「右案日本紀天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三位麻續王有罪流于因幡 一子流伊豆嶋 一子流血鹿嶋也 是云配于伊勢國伊良虞嶋者 若疑後人縁歌辞而誤記乎」<右は、日本紀を案(かむが)ふるに、曰(い)はく、「天皇の四年乙亥(きのとゐ)の夏の四月戊戌(つちのえいぬ)の朔(つきたち)の乙卯(きのとう)に、三位麻続王(をみのおほきみ)罪あり。因幡(いなは)に流す。一(ひとり)の子をば伊豆(いず)の島に流す。一(ひとり)の子をば血鹿(ちか)の島に流す」といふ。ここに伊勢の国の伊良虞(いらご)の島に配(なが)すといふは、けだし後の人、歌の辞(ことば)に縁(よ)りて誤り記(しる)せるか>である。

(注)罪あり:政治事件による失脚らしい。(伊藤脚注)

(注)血鹿の島:長崎県五島列島。日本の西端とされた。事件は二人の子が起こし、麻続王

連座らしい。(伊藤脚注)因幡:近流 伊豆・血鹿:遠流

 

 奈良県HP「はじめての万葉集 vol.56」に二三歌の解説が次の様に掲載されていたので引用させていただきました。

「麻続王(おみのおおきみ)の伝承

 今回の歌は、天武(てんむ)天皇の時代に、麻続王(おみのおおきみ)という人物が罪によって伊勢国の伊良虞(いらご)の島に流された時に、ある人が哀傷して作ったと伝えられている一首です。『伊良虞の島』は所在未詳ですが、現在の愛知県の渥美半島先端の伊良湖岬(いらごみさき)とする説や、伊良湖岬西方の神島とする説があります。

 麻続王は伝未詳の人物です。『日本書紀天武天皇四(六七五)年四月条には、時に三位であった王を流罪にしたとありますが、何の罪であったかは不明です。『日本書紀』では王を因幡(いなば)国(現在の鳥取県)に流したとあり、さらに二人の子どもをそれぞれ『伊豆(いず)の島』と、現在の長崎県五島列島の島とされる『血鹿(ちか)の島』に流したと記されています。また、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』行方(なめかた)郡条には、麻続王が板来(いたく)村(現在の茨城県潮来(いたこ)市の一部)に追放されて住んでいたという伝承も記録されています。

 歌の『打つ麻(そ)を』は『麻続(をみ)(<麻績>とも書きます)』の枕詞(まくらことば)で、麻(あさ)は打って繊維を柔らかくして糸に績(う)む(糸による)ことから、『麻続王』にかかります。高貴な身分である王が流罪になった上に、あろうことか海人(あま)ででもあるかのように島の藻を刈っていらっしゃるーそのような悲哀と同情からこの歌が詠まれ、王の伝承と共にうたい継がれていったものと思われます。

 王が実際はどこに配流されたのか、興味は尽きません。ですが、伊勢・因幡常陸のような広範囲において、一人の人物をめぐる歌や伝承が残されていることにこそ、この作品の価値があるように思われます。この作品は、古代の伝承世界を知る貴重な手がかりとして注目されています。(本文 万葉文化館 大谷 歩)」

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「goo辞書」

★「はじめての万葉集 vol.56」 (奈良県HP)