万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1431)―愛知県西尾市 最明寺―万葉集 巻十四 三四〇〇

●歌は、「信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ」である。

愛知県西尾市 最明寺万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、愛知県西尾市 最明寺にある。

 

●歌をみてみよう。

 

信濃奈流 知具麻能河泊能 左射礼思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟

       (作者未詳 巻十四 三四〇〇)

 

≪書き下し≫信濃(しなの)なる千曲(ちぐま)の川のさざれ石(し)も君し踏みてば玉と拾(ひろ)はむ

 

(訳)信濃の千曲の川の細(さざ)れ石も、いとしい我が君が踏んだ石なら、玉と思ってひらいましょう。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 三三九八から三四〇一歌は、巻十四東歌の「信濃の国の歌」である。

 他の三首もみてみよう。

 

 

◆比等未奈乃 許等波多由登毛 波尓思奈能 伊思井乃手兒我 許登奈多延曽祢

       (作者未詳 巻十四 三三九八)

 

≪書き下し≫人皆(ひとみな)の言(こと)は絶(た)ゆとも埴科(はにしな)の石井(いしゐ)の手児(てご)が言(こと)な絶えそね

 

(訳)世の人みんなとの交わりは絶えようとも、埴科(はにしな)の石井の手児の消息だけは絶えないでほしいもの。(同上)

(注)ひとみな【人皆】名詞:すべての人。みんな。 ⇒参考:古く、同類語の「皆人(みなひと)」が、その事柄に関係する全員をさしたのに対して、「人皆」は、ばくぜんとすべての人をさしたともいう。中古以降は「皆人」だけになり、どちらの意味にも「皆人」を用いるようになった。(学研)

(注)埴科:信濃の郡名。埴科郡・更科市あたり。(伊藤脚注)

(注)てこ【手児】《「てご」とも》① 父母の手に抱かれる子。赤子。② 少女。おとめ。(welio辞書 デジタル大辞泉)ここでは②の意

(注)石井の手児:伝説上の美女。(伊藤脚注)

 

 

信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之奈牟 久都波氣和我世

      (作者未詳 巻十四 三三九九)

 

≪書き下し≫信濃道(しなのぢ)は今の墾(は)り道(みち)刈(か)りばねに足踏(ふ)ましなむ沓(くつ)履(は)け我(わ)が背(せ)

 

(訳)信濃道は今拓(ひら)いたばかりの道です。切り株に馬の足を踏ませてはなりません。ちゃんと沓を履かせていらっしゃいな、あなた。(同上)

(注)しなのぢ【信濃路】:信濃国の道。また、信濃国へ通じる道。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)はりみち【墾道】名詞:新しく切り開いた道。新道。(学研)

(注)かりばね【刈り株】名詞:草木や竹などを刈ったあとの株。切り株。(学研)

(注)足踏ましなむ:「足」は馬の足。「しむ」は使役の助動詞。「な」は禁止の助詞。(伊藤脚注)

 

 

◆中麻奈尓 宇伎乎流布祢能 許藝弖奈婆 安布許等可多思 家布尓思安良受波

       (作者未詳 巻十四 三四〇一)

 

≪書き下し≫千曲(ちぐま)なに浮き居(を)る船の漕(こ)ぎ出(で)なば逢(あ)ふことかたし今日(けふ)にしあらずは

 

(訳)千曲の川淵(かわぶち)に浮き漂っているあの舟が、漕ぎ出して行ったなら、もう二度と逢うことはできまい。今日というこの日に逢っておかなかったら。(同上)

(注)ナは親愛の接尾語か。(伊藤脚注)

(注)「逢う」は、ここでは共寝する意。東歌にはこの用法が多い。(伊藤脚注)

 

 「ちぐま」については、三四〇一歌では「中麻」、三四〇〇歌では「知具麻」となっている。「知具麻」はわかるが、「中麻」と書いて「ちぐま」と解する意味が分からない。

東歌は東国の訛りが一つの特徴ともなっているので、方言という観点から検索してみた。

馬瀬 良雄氏(信州大学名誉教授 日本語学者)の稿「方言よもやま話―信州方言とそのおもしろさ―」の中で「千曲川」の方言ついて次の様に書かれている。

 「ちくまがわ」について、「・・・北信地方の方言ではこの川をチョーマというところが多いんです。北信で『千曲川』をどう言うか調べた資料があります。・・・東信境に行くとチューマとなっています・・・」

 まさに「チューマ=中麻」ではないか。

 さらに、チグマ>チウマ>チューマ>チョーマの変遷にも触れられている。万葉時代にすでにこの変化が起こっていたという可能性は否定できないように思う。

 また、「『方言には古語が残る』と申します・・・」とも書かれている。

 自分なりに納得できたのである。

 

岡崎市制100周年記念事業「岡崎まちものがたり」に最明寺について次の様に書かれている。

「最明寺(雲母山最明寺)最明寺は鎌倉幕府執権職であった北条時頼講公がその子時宗を伴って、九州博多へ元の襲来に備え出向の折り、占部(現、岡崎市正名町)の金子山釈迦堂に参拝し、一泊した。そのお礼として寺領75石、山林5町歩を寄進した。1263(弘長3)年11月22日、時頼公が死去した後、その子北条時宗が寺領50町歩、山林76町歩を寄進(朱印)し、釈迦堂の寺号を最明寺と改めた。・・・北条家とその家臣を弔う菩提寺となった。」さらに「最明寺には作者不詳の万葉歌碑があり、1975(昭和50)年~1985(昭和60)年頃に建立されたと思われる。」

 

 

 

三河安城駅➡愛知県西尾市 最明寺■

 約30分のドライブで到着。

最明寺入口碑と駐車場

最明寺境内と枝垂桜

参道

 駐車場に車を停め、参道石段を上る。境内の鐘楼近くの枝垂桜が見事である。そんなに広くない境内なのに、歌碑を見つけることが出来ない。墓参に来られていた方に尋ねるもご存じではないようである。

 鐘楼の横手に結構急な山道がある。境内に見当たらないということはこの参道のどこかにあるのだろうと上ってみた。ほぼ10メートル間隔で信者の寄進によるのか小さな仏像と祠が建てられている。10分ほど上ったがかなりの勾配であるので息が切れる。諦めて下山する。 

 ちょうど、先ほどの墓参の方のお連れの老婦人が来られ、かなり前に、山道の上の方に東京から来た人たちが碑を担いで上って行かれたことがあると教えていただく。

 とにかく上れば碑に行き着けると思うと勇気が湧いてくる。再挑戦である。

くねくねと続く山道

山道は、くねくね、まさに千曲(千隈)の道である。ようやく頂上に辿り着く。碑は碑でも「秩父宮殿下御展望之地」の碑であった。その周辺を丹念に探ってみたが見つからず。

秩父宮殿下御展望之地」の碑

頂上からの眺め


 しかし頂上からの眺めはすばらしく心が癒されたのである。

 歌碑が見つからないこの絶望感・・・。下りの山道の疲れは尋常ではなかった。

 家内は腰が悪いので下で待機している。「頂上まで上ったが歌碑は無かった。今から下ります。」と携帯で連絡をつける。

ころばぬように足下に気をつけながら、下りていく。ようやく鐘楼の屋根が見えてくる。下まで下りると、家内が五重の石塔の横の歌碑を指さし「ひょっとしてこれ?」

 何と山道の入口すぐの所にあったのである。

五重の石塔と万葉歌碑

 今までの苦労は何だったのか。歌碑巡りも体力勝負である。しかし何という試練を弘法大師様は与えたもうたのか。これまでも大師様ゆかりのところの歌碑では苦労をしたが、ちゃんと最後には導いて下さることが多かった。

一気に疲れが吹っ飛ぶ。

 予定は大幅に超過。駐車場でお昼をとり次の目的地へ向かうことに。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「方言よもやま話―信州方言とそのおもしろさ―」 (馬瀬 良雄氏<信州大学名誉教授 日本語学者>の稿)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「岡崎市HP」