―その1005―
●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。
●歌をみていこう。
◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟
(橘諸兄 巻二十 四四四八)
≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ
(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように
(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。
(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。
この歌については、これまでも何回か紹介してきている。
直近のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」では、歌とともに、橘諸兄が、越中にいる大伴家持のところに田辺福麻呂を「左大臣橘家之使者」として遣わし、諸兄の歌とともに、『太上皇御在於難波宮之時歌』(太上皇、難波宮に御在しし時の歌)として、元正太上天皇・左大臣橘諸兄・河内女王(かわちのおおきみ)・粟田(あわた)女王らの歌を伝誦していることにも触れている。
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11月14日、愛知県春日井市東野町「ふれあい縁道 万葉の小道」と同豊明市新栄町「大蔵池公園」の万葉歌碑を巡った。
どちらも万葉植物ゆかりの歌碑であるので、この橘諸兄の四四四八歌は重複している。
橘諸兄の歌は万葉集には十首収録されている。本稿では、一〇二五、一五七四、一五七五、四〇五六、三九二二歌を、大蔵池公園のところでは、四四四七、四四五四、四四五五歌、四二七〇歌を紹介することにさせていただく。
まず、一〇二五歌からみてみよう。
題詞、「(天平十年)秋の八月の二十日に、右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌四首」のうちの一首である。
(注)右大臣橘家:橘諸兄邸。
諸兄は、天平十年(738年)一月に右大臣に就任。天平九年(737年)天然痘が大流行し藤原不比等の四子(房前、麻呂、武智麻呂、宇合)が相次いで没し藤原政権が一時的に崩壊し王族出身者が新政権を担い、旧氏族(大野・巨勢・大伴・県犬養氏)が活気づいたのである。
◆奥真経而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歳 有巨勢奴香聞
(橘諸兄 巻六 一〇二五)
≪書き下し≫奥(おく)まへて我(わ)れを思へる我(わ)が背子(せこ)は千年(ちとせ)五百年(いほとせ)ありこせぬかも
(訳)心の奥深くに秘めて私を思っていて下さるあなたこそ、五百年も千年も生きていて欲しいものです。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)奥まへて:心の奥に深く秘めて。
(注)こせぬかも 分類連語:…してくれないかなあ。 ※動詞の連用形に付いて、詠嘆的にあつらえ望む意を表す。 ⇒ なりたち 助動詞「こす」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)
続いて一五七四、一五七五歌である。
題詞「右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌七首」の内の二首である。左注は、「天平十年戌寅(つちのえとら)の秋の八月二十日」となっている。先の一〇二五歌の題詞と同じ日付であり、どうも分けて編纂収録されたようである。
◆雲上尓 鳴奈流鴈之 雖遠 君将相跡 手廻来津
(橘諸兄 巻八 一五七四)
≪書き下し≫雲の上(うへ)に鳴くなる雁(かり)の遠けども君に逢はむとた廻(もとほ)り来(き)つ
(訳)雲の上で鳴いている雁のように、遠い所ではありますが、あなた様にお目にかかろうと、めぐりめぐりしてやって参りました。(同上)
(注)上二句は序。「遠けども」を起す。
(注)たもとほる【徘徊る】自動詞:行ったり来たりする。歩き回る。 ※「た」は接頭語。上代語。(学研)
(注の注)た廻(もとほ)り来(き)つ:遠路はるばるやって来た。宴は、奈良京から離れた井手の別邸(京都府綴喜郡)で行われた。
◆雲上尓 鳴都流鴈乃 寒苗 芽子乃下葉者 黄變可毛
(橘諸兄 巻八 一五七五)
≪書き下し≫雲の上(うへ)に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉(したば)はもみちぬるかも
(訳)雲の上で鳴いた雁の声が寒々と感じられる折も折、お屋敷一帯の萩の下葉はすっかり色づきましたね。何と見事なことでしょう。(同上)
次は、四〇五六歌である。
題詞は、「左大臣橘宿祢歌一首」<左大臣橘宿禰(たちばなのすくね)が歌一首>である。
◆保里江尓波 多麻之可麻之乎 大皇乎 美敷祢許我牟登 可年弖之里勢婆
(橘諸兄 巻十八 四〇五六)
≪書き下し≫堀江(ほりえ)には玉敷かましを大君(おほきみ)を御船(みふね)漕(こ)がむとかねて知りせば
(訳)堀江には玉を敷き詰めておくのでしたのに。我が大君、大君がここで御船を召してお遊びになると、前もって存じ上げていたなら。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)堀江:難波の堀江。今の天満橋あたりの大川。
そして三九二二歌である。
序は、「天平十八年正月白雪多零積地數寸也 於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 ≪中宮西院」供奉掃雪 於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿 而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌 」<天平十八年の正月に、白雪(はくせつ)多(さは)に零(ふ)り、地(つち)に積(つ)むこと数寸(すすん)なり。時に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、大納言(だいなごん)藤原豊成朝臣(ふづはらのとよなりあそん)また諸王諸臣(しよわうしよしん)たちを率(ゐ)て、太上天皇(おほきすめらみこと)の御在所 ≪中宮の西院≫に参入(まゐ)り、仕(つか)へまつりて雪を掃く。ここに詔(みことのり)を降(くだ)し、大臣参議幷(あは)せて諸王は、者令侍于大殿(おほどに)の上に侍(さもら)はしめ、諸卿大夫(しよきやうだいぶ)は、南の細殿(ほそどの)に侍はしめて、すなはち于酒を賜ひ肆宴(とよのあかり)したまふ。勅(みことのり)して曰(のちたま)はく、「汝(いまし)ら諸王卿たち、いささかにこの雪を賦(ふ)して、おものおものその歌を奏せ」とのりたまふ。>である。
(注)天平十八年:746年
題詞は、「左大臣橘宿祢應詔歌一首」<左大臣橘宿禰(たちばなのすくね)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。
◆布流由吉乃 之路髪麻泥尓 大皇尓 都可倍麻都礼婆 貴久母安流香
(橘諸兄 巻十七 三九二二)
≪書き下し≫降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか
(訳)降り積もる雪のようにまっ白な髪になるまでも、大君にお仕えさせていただけたことは、何とまあ貴くもったいないことか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
大伴家持と橘諸兄の接点は、家持が、天平十年(738年)内舎人(うどねり)に任官された時であるといわれている。同冬十月、長子の奈良麻呂の主催する宴に招かれたのである。
この宴で披露された歌すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(939)」で紹介している。
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―その1005―
●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。
●歌をみていこう。
◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬
(大伴家持 巻十九 四一三九)
※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」
≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)
(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
この歌はの題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である。
この歌については、高岡市万葉歴史館の入口の家持と坂上大嬢の夫婦のブロンズ像とともに、家持の女性遍歴についても、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その825)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20221011 「その1005」で、四〇五六歌、三九二二歌が抜けていたので追記修正しました。(申し訳ございませんでした)