●歌は、「橘のにほへる香かもほととぎす鳴く夜の雨にうつろひぬらむ」である。
●歌をみていこう。
◆橘乃 尓保敝流香可聞 保登等藝須 奈久欲乃雨尓 宇都路比奴良牟
(大伴家持 巻十七 三九一六)
≪書き下し≫橘(たちばな)のにほへる香(か)かもほととぎす鳴く夜(よ)の雨にうつろひぬらむ
(訳)橘の今を盛りと咲きにおう香り、あの香りは、時鳥の鳴くこの夜の雨で、もう消え失せてしまっていることであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)かも 係助詞:《接続》体言や活用語の連体形などに付く。〔疑問〕…か(なあ)。…なのか。 ⇒ 語法 「かも」を受ける文末の活用語は連体形になる。
参考(1)係助詞「か」に係助詞「も」が付いて一語化したもの。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うつろふ【移ろふ】自動詞:①移動する。移り住む。②(色が)あせる。さめる。なくなる。③色づく。紅葉する。④(葉・花などが)散る。⑤心変わりする。心移りする。⑥顔色が変わる。青ざめる。⑦変わってゆく。変わり果てる。衰える。 ※「移る」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」からなる「移らふ」が変化した語。(学研)
三九一六から三九二一歌の歌群の題詞は、「十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首」<十六年の四月の五日に、独り平城(なら)の故宅(こたく)に居(を)りて作る歌六首>である。
三九一七から三九三一歌をみてみよう。
◆保登等藝須 夜音奈都可思 安美指者 花者須久登毛 可礼受加奈可牟
(大伴家持 巻十七 三九一七)
≪書き下し≫ほととぎす夜声(よごえ)なつかし網(あみ)ささば花は過(す)くとも離(か)れずか鳴かむ
(訳)時鳥、そうこの鳥は夜声が格別心にしみる。網を張って囲っておけば、橘の花は散り失せても、飛び去らずにいつも鳴いてくれることであろうか。(同上)
(注)あみさす【網さす】分類連語:鳥網(=鳥を取る網)を張る(学研)
◆橘乃 尓保敝流苑尓 保登等藝須 鳴等比登都具 安美佐散麻之乎
(大伴家持 巻十七 三九一八)
≪書き下し≫橘のにほへる園(その)にほととぎす鳴くと人告(つ)ぐ網ささましを
(訳)橘の香が溢れている庭園(その)で、時鳥、そいつが鳴いたと、人が知らせてくれた。やっぱり網を張り設けておくべきであった。(同上)
◆青丹余之 奈良能美夜古波 布里奴礼登 毛等保登等藝須 不鳴安良久尓
(大伴家持 巻十七 三九一九)
≪書き下し≫あをによし奈良の都は古(ふ)りぬれどもとほととぎす鳴かずあらなくに
(訳)ここ青土の奈良の都は、今やもの古(ふ)りてしまったけれど、昔馴染の時鳥、この鳥だけは、やって来て鳴かないことはないのに。(同上)
(注)もと【本・元】[一]名詞:以前からのもの。昔からあるもの。(学研)
(注)あらなくに【有らなくに】分類連語:ないことなのに。あるわけではないのに。 ⇒参考 文末に用いられるときは詠嘆の意を含む。
⇒ なりたち ラ変動詞「あり」の未然形+打消の助動詞「ず」の未然形の古い形「な」+接尾語「く」+助詞「に」(学研)
(注の注)鳴かずあらなくに:しきりに鳴いてくれるのに。二重否定で強い肯定を示す。
◆鶉鳴 布流之登比等波 於毛敝礼騰 花橘乃 尓保敷許乃屋度
(大伴家持 巻十七 三九二〇)
≪書き下し≫鶉(うづら)鳴く古(ふる)しと人は思へれど花橘(はなたちばな)のにほふこのやど
(訳)鶉の鳴く、もの古りてさびしいところと人は思っているけれど、花橘が昔のままに咲きかおる、この古里の庭よ。(同上)
(注)うずらなく〔うづら‐〕【鶉鳴く】[枕]:ウズラは草深い古びた所で鳴くところから「古(ふ)る」にかかる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
◆加吉都播多 衣尓須里都氣 麻須良雄乃 服曽比獦須流 月者伎尓家里
(大伴家持 巻十七 三九二一)
≪書き下し≫かきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付けますらをの着(き)襲(そ)ひ猟(かり)する月は来にけり
(訳)杜若(かきつばた)、その花を着物に摺り付け染め、ますらおたちが着飾って薬猟(くすりがり)をする月は、今ここにやってきた。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)きそふ【着襲ふ】他動詞:衣服を重ねて着る。
左注は、「右六首天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作」<右の六首の歌は、天平十六年の四月の五日に、独り平城(なら)故郷(こきゃう)の旧宅(きうたく)に居(を)りて、大伴宿禰家持作る。>である。
この歌が作られた天平十六年一月には、家持が親交を持っていた安積(あさか)親王が亡くなっている。藤原仲麻呂による謀殺とも言われている。
安積親王については、コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus に、「728-744 奈良時代,聖武(しょうむ)天皇の皇子。
神亀(じんき)5年生まれ。母は県犬養広刀自(あがたのいぬかいの-ひろとじ)。天平(てんぴょう)16年閏(うるう)1月11日聖武天皇の難波(なにわ)行幸にしたがったが,脚の病気のため恭仁京(くにきょう)にひきかえし,13日に没した。17歳。光明皇后の生んだ姉阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が皇太子にたてられていたが,親王が唯一の男子であったので,藤原仲麻呂らによる暗殺の疑いももたれている。」と書かれている。
相継ぐ皇太子の死によって、安積親王の立太子も予想されたが、橘諸兄につながる血脈の立太子は、藤原政権の巻き返しの策として女子の立太子が光明皇后の意向として行われたという。
光明皇后と孝謙天皇に結びついた藤原仲麻呂の栄達は、安積親王の死によってもたらされたといえるのである。
聖武天皇、橘諸兄ラインに組する家持にとって対藤原氏への切り札をなくしたといっても過言ではない。
家持は内舎人として、奈良の自宅で喪に服していたと思われる。
二月には、聖武天皇は、難波宮を都とする勅旨を発している。天平十七年五月再び平城京に遷都されるが、天平十二年九月の藤原広嗣の乱以降の五年間は恭仁京、紫香楽京、難波京と転々とし「彷徨の五年」と称されている。
今回の万葉歌碑めぐりは、愛知県春日井市の「万葉の小道」と豊明市新栄町の「大蔵池公園」の2か所である。
「万葉の小道」は、春日井市の中心を流れる八田川に沿うように「ふれあい緑道」がある。約1.5kmあるそうである。その途中、前棹橋と東野池橋の間に「万葉の小道」がある。
三ツ又ふれあい公園の駐車場の車を留める。川と縁道のグリーンベルトに様々な表情をした人や動物の埴輪がやさしく出迎えてくれる。略地図でみていたので、感覚としてはすぐと思っていたが結構歩いたのである。ようやく左手に「万葉の小道歌碑案内図」が見え、その先に歌碑らしいものが手を振ってくれている。
ここには15の歌碑が建てられているのである。
今まであちこち巡って来たが、これほどまで手入れの行き届いた自然と調和した散策道は初めてといっていいだろう。
ありがとうございました。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」