●歌は、「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」である。
●歌碑©は、富山市松川べり 越中万葉歌碑(大伴家持)である。
●歌をみていこう。
◆東風<越俗語東風謂之安由乃可是也> 伊多久布久良之 奈呉乃安麻能 都利須流乎夫祢 許藝可久流見由
(大伴家持 巻十七 四〇一七)
≪書き下し≫あゆの風(かぜ)<越の俗の語には東風をあゆのかぜといふ> いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣(つり)する小舟(おぶね)漕(こ)ぎ隠(かく)る見(み)ゆ
(訳)東風(あゆのかぜ)<越(こし)の土地言葉で、東風を「あゆの風」という>が激しく吹くらしい。奈呉の海人(あま)たちの釣する舟が、今まさに浦風(うらかぜ)に漕ぎ隠れて行く。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)あゆ【東風】名詞:東風(ひがしかぜ)。「あゆのかぜ」とも。 ※上代の北陸方言。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)奈呉の海 分類地名 歌枕:今の富山県新湊(しんみなと)市の西部海岸一帯。この地に赴任した大伴家持(おおとものやかもち)の歌で有名になった。奈呉の浦。②今の大阪市の住吉大社の西方にあった海岸。 ※②とも「那古の海」「名児の海」とも書くが、①は多く「奈呉の海」と書き、②は多く「名児の海」と書く。(学研)ここでは①の意
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この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その861)」で、大伴家持が創建したといわれている射水市八幡町 放生津八幡宮の歌碑とともに紹介している。
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7月4日、富山城址公園にある家持の巻十九 四一三九歌の歌碑を探すべく公園内を散策したが、結局見つけることができなかった。
公園内の「まちなか観光案内所」に飛び込み教えてもらったのである。その時、「まちなか観光マップ」と「松川べり散策 越中万葉歌碑&歌石板めぐり」のパンフレットをいただいた。
パンフレットをよく見てみると、ノーチェックであった歌碑三基と歌石板十五枚の地図と歌の説明が載っていたのである。
宝探しの地図を手に入れたような興奮がまだ冷めていない。興奮がよみがえるなか、16:00前に、「高志の国文学館」の駐車場に車を滑り込ませる。
歌碑三基と歌石板十五枚をじっくり見て回る予定である。
「松川べり散策 越中万葉歌碑&歌石板めぐり」のパンフレットの地図通りに同文学館駐車場から松川べりに出てすぐに「越中万葉歌碑案内板」と「巻十七 四〇一七の歌碑」を見つけたのである。
幸先良いスタートである。この分だと早めに全部を見て回れそうである。
地図を頼りに「松川橋」の方に移動、歌石板⑬(巻十七 四〇二九)、同⑭(巻十九 四一九九)を探す。
歌石板というので瓦状か平石状の板状のものに歌が刻してあり散策道近くに立ててあると想像して探すが見つからない。
(注)勝手に描いていた歌石板のイメージ:京都府相楽郡精華町けいはんなプラザ前の植え込みの万葉歌碑
けいはんなプラザには、「巻八 一四三五」と「巻九 一七五八」の歌碑が、英文と和文の計4基の歌碑がある。
「巻八 一四三五」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その185)」で紹介している。
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「巻九 一七五八」については、同「同(その186)」で紹介している。
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さらに「越中万葉歌碑案内板」を通り越し、「舟橋」あたりまで⑩~⑫の歌石板を求めてさまようが発見できず。
余裕の気持が一変、焦りの気持に。
「高志の国文学館」の⑮の歌石板をゴールと考えていたが、同文学館に飛び込み、歌石板の教えを乞うことにする。
同文学館の玄関前や前庭のようなところを見ても歌石板のようなものが見当たらない。らしきものがあってもそれは違うのである。
歌石板とは・・・
「高志の国文学館」の⑮の歌石板(巻十九 四一四三)の解説は次稿で。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「松川べり散策 越中万葉歌碑&歌石板めぐり(パンフレット)」(富山県文化振興財団)