■ねこやなぎ■
●歌は、「山の際に雪は降りつつしかずがにこの川楊は萌えにけるかも」である。
●歌碑(プレート)は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。
●歌をみていこう。
◆山際尓 雪者零管 然為我二 此河楊波 毛延尓家留可聞
(作者未詳 巻十 一八四八)
≪書き下し≫山の際(ま)に雪は降りつつしかすがにこの川楊(かはやぎ)は萌えにけるかも
(訳)山あいに雪は降り続いている。それなのに、この川の楊(やなぎ)は、もう青々と芽を吹き出した。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)しかすがに【然すがに】副詞:そうはいうものの。そうではあるが、しかしながら。※上代語。 ⇒参考:副詞「しか」、動詞「す」の終止形、接続助詞「がに」が連なって一語化したもの。中古以降はもっぱら歌語となり、三河の国(愛知県東部)の歌枕(うたまくら)「志賀須賀(しかすが)の渡り」と掛けて用いることも多い。一般には「しか」が「さ」に代わった「さすがに」が多く用いられるようになる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1887)」で紹介している。
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「山の際」と詠われている歌をみてみよう。
■一一二二歌■
題詞は、「詠鳥」<鳥を詠む>である。
◆山際尓 渡秋沙乃 行将居 其河瀬尓 浪立勿湯目
(作者未詳 巻七 一一二二)
≪書き下し≫山の際(ま)に渡るあきさの行(ゆ)きて居(ゐ)むその川の瀬に波立つなゆめ
(訳)山あいを鳴き渡るあいさ鴨が飛んで行って降り立つであろう、その川の瀬に波よ立つな、けっして。(同上)
(注)あきさ:鴨に似た渡り鳥。「あいさ」ともいう。鴨の仲間。派手な色をして鴨のような体に鵜のような細いくちばしをもつ。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その9改)」で紹介している。
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■一八三七歌■
◆山際尓 鸎喧而 打靡 春跡雖念 雪落布沼
(作者未詳 巻十 一八三七)
≪書き下し≫山の際(ま)にうぐひす鳴きてうち靡(なび)く春と思へど雪降りしきぬ
(訳)山あいで鶯が鳴いて、草木の靡く春だと思われるのに、雪はまだ降りしきっている。(同上)
(注)山の際:山あいで。(伊藤脚注)。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2085)」で紹介している。
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■一八六四歌■
◆足日木之 山間照 櫻花 是春雨尓 散去鴨
(作者未詳 巻十 一八六四)
≪書き下し≫あしひきの山の際(ま)照らす桜花(さくらばな)この春雨(はるさめ)に散りゆかむかも
(訳)山あいを明るく照らして咲いている桜の花、あの花は、この春雨に散ってゆくことだろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その933)」で紹介している。
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■一八六五歌■
◆打靡 春避来之 山際 最木末乃 咲徃見者
(作者未詳 巻十 一八六五)
≪書き下し≫うち靡く春さり来らし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば
(訳)草木の靡く春がとうとうやって来たらしい。山あいの遠くの梢(こずえ)梢が、次々と咲いてゆくのを見ると。(同上)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1043)」で紹介している。
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「山の際(ま)」に似たような「山の端(は)」と詠われている歌がある。こちらもみてみよう。
■四八六歌■
題詞は、「崗本天皇御製一首 幷短歌」<岡本天皇(をかもとのすめらみこと)の御製一首 幷(あは)せて短歌>である。
◆山羽尓 味村驂 去奈礼騰 吾者左夫思恵 君二四不在者
(舒明天皇 巻四 四八六)
≪書き下し≫山の端にあぢ群騒き行くなれど我れは寂しゑ君にしあらねば
(訳)山際をあじ鴨の群れが騒いで飛んで行くけれど、私はさびしくてならぬ。行き来する鳥は所詮我が君ではないから。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)さぶし【寂し・淋し】形容詞:心が楽しまない。物足りない。 ※中古以後は「さびし」。上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)ゑ 間投助詞:《接続》種々の語に付く。文の間にも終わりにも位置する。〔嘆息のまじった詠嘆〕…よ。…なあ。 ※終助詞とする説もある。多く「よしゑ」「よしゑやし」の形で用いられる。上代語。(学研)
(注)君にしあらねば:「あぢ群」を君の霊魂と見たいが、それは所詮君ではないので、の意(伊藤脚注)
■一〇〇八歌■
題詞は、「忌部首黒麻呂恨友賖来歌一首」<忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)、恨友の遅(おそ)く来ることを恨(うら)むる歌一首>である。
◆山之葉尓 不知世經月乃 将出香常 我待君之 夜者更降管
(忌部首黒麻呂 巻六 一〇〇八)
≪書き下し≫山の端にいさよふ月の出でむかと我が待つ君が夜はくたちつつ
(訳)山の端でためらっている月のように、もう出るかもう出るかと私が待ちかねている君がいっこうに現れない、夜は更けてしまうというのに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)山の端:山の稜線。友を待つ心の譬喩。月見の宴があったのであろう。(伊藤脚注)
(注)いさよふ【猶予ふ】自動詞:ためらう。たゆたう。 ※鎌倉時代ごろから「いざよふ」。(学研)
(注)我が待つ君が:「君が」の下に「現れない」「来まさぬ」の意が省かれている。(伊藤脚注)
■一〇七一歌■
◆山末尓 不知夜歴月乎 将出香登 待乍居尓 夜曽降家類
(作者未詳 巻七 一〇七一)
≪書き下し≫山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける
(訳)山の端でためらっている月、その月を、もう出るかとじっと待っているうちに、こんなに夜が深くなってしまった。(同上)
■一〇八四歌■
◆山末尓 不知夜經月乎 何時母 吾待将座 夜者深去乍
(作者未詳 巻七 一〇八四)
≪書き下し≫山の端にいさよふ月をいつとかも我は待ち居らむ夜は更けにつつ
(訳)山の端で出るのをためらっている月、そんな月のようなあの方であるのに、私はおいでをいつと思ってお待ちしたらよいのか。夜はもう更けてしまうというのに。(同上)
■三六二三歌■
◆山乃波尓 月可多夫氣婆 伊射里須流 安麻能等毛之備 於伎尓奈都佐布
(遣新羅使人等 巻十五 三六二三)
≪書き下し≫山の端(は)に月傾(かたぶ)けば漁(いざ)りする海人(あま)の燈火(ともしび)沖になづさふ
(訳)山の端に月が傾いてゆくと、魚を捕る海人(あま)の漁火(いさりび)、その火が沖の波間にちらちらと漂うている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)二)
(注)なづさふ 自動詞:①水にもまれている。水に浮かび漂っている。②なれ親しむ。慕いなつく。(学研)ここでは①の意
(注)沖になづさふ:前歌の月が傾き、漁火が沖の波間にわびしく揺れ動く。旅愁に暮れている。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1618)」で紹介している。
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ざっくりといえば、「山の際(ま)」は、一八四八歌では、主役が川楊であり、一一二二歌のあきさ(あいさ鴨)の着地点の川の瀬、一八三七歌では雪が、一八六四歌では桜花、一八六五歌では木末と、山あいの主役が詠われているのである。
それに対し「山の端(は)」は、文字通り山の端(はし)で地上から離れた存在、あぢ(あじ鴨)を霊魂と見立てるとか、月など地上からかけ離れたものから目を転じての歌に使われているのである。
「山の辺(へ)」もある。歌い手の距離感から大雑把に言えば、「山の辺」<「山の際」<「山の端」となるであろう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」