万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その932、933)―一宮市萩原町 萬葉公園(3、4)―万葉集 巻二十 四四七六、巻十 一八六四

―その932―

●歌は、「奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(3)万葉歌碑(プレート)<大原真人今城>

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆於久夜麻能 之伎美我波奈能 奈能其等也 之久之久伎美尓 故非和多利奈無

               (大原真人今城 巻二十 四四七六)

 

≪書き下し≫奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ 

 

(訳)奥山に咲くしきみの花のその名のように、次から次へとしきりに我が君のお顔が見たいと思いつづけることでしょう、私は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)しきみ【樒】名詞:木の名。全体に香気があり、葉のついた枝を仏前に供える。また、葉や樹皮から抹香(まつこう)を作る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)

 

 シキミの語源は「悪しき実」で、文字通り実に毒がある。秋になる実は、料理で使う「八角」に似ているため中毒を起こし時には死亡することもあるという。

 

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(729)」で紹介している。

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 四四七五、四四七六歌の題詞は、「廿三日集於式部少丞大伴宿祢池主之宅飲宴歌二首」<二十三日に、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)する歌二首>である。

(注)二十三日:天平勝宝八年十一月二十三日

 

四四七五歌もみてみよう。

 

◆波都由伎波 知敝尓布里之家 故非之久能 於保加流和礼波 美都々之努波牟

               (大原真人今城 巻二十 四四七五)

 

≪書き下し≫初雪(はつゆき)は千重(ちへ)に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ

 

(訳)初雪よ、幾重にも幾重にも降り積もれ。何かにつけて人恋しさのしきりな私は、よくよく見ながらあの人を偲ぼう。(同上)

 

 両歌ともに、池主に対する恋歌仕立てになっている。

 

 題詞にある天平勝宝八年(756年)は歴史が動いた年である。

二月に左大臣橘諸兄藤原仲麻呂一派に誣告され官を退いたのである。五月三日に聖武太上天皇が亡くなり、その八日後に、大伴氏の長老格であった大伴古慈斐(こしび)が朝廷を誹謗したとして拘禁された。仲麻呂による守旧派大伴氏への挑戦である。

 大伴家持は、六月に「族(やから)を喩(さと)す歌一首併(あは)せて短歌」(巻二十四四六五~四四七〇歌)を詠んで大伴氏一族に自重を促している。

 

 橘奈良麻呂の変が起きたのは天平宝字元年(757年)七月である。

 この前には、四四七五、四四七六歌のように歌作を伴う宴が頻繁に行われているが、来るべき日への集いであった可能性は否定できないと思われる。

 この宴の歌としては、主人の池主の歌がない。ここにきて、両者の考え方に隔たりができて来ているのかもしれない。また大伴家持の姿がない。

 奈良麻呂の変で、大伴家持、大原真人今城は、連座を逃れ、池主は投獄され歴史から姿を消している。今城は池主に、思いとどまるように説得していたのであろう。

 

 

 

―その933―

●歌は、「あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(4)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(4)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足日木之 山間照 櫻花 是春雨尓 散去鴨

               (作者未詳 巻十 一八六四)

 

≪書き下し≫あしひきの山の際(ま)照らす桜花(さくらばな)この春雨(はるさめ)に散りゆかむかも

 

(訳)山あいを明るく照らして咲いている桜の花、あの花は、この春雨に散ってゆくことだろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(526)」で紹介している。

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 萬葉公園について少し触れてみよう。最寄りの駅は名鉄尾西線「萩原」駅である。萩原という名は、萩が群生していたことに因んでいる。また萩は万葉集で数多く詠われていることから萬葉公園と命名されたようである。少し距離はあるが、新幹線を挟んで高松分園があり、菖蒲が多数植えられている。

 高松分園には、一宮中ライオンズクラブによる「『高松論争』になった萬葉歌」という説明案内板が建てられている。

それによると、昭和三十年、詩人の佐藤一秀は、「高松を詠んだ萬葉歌六首(巻十)は、わが故郷の『萩の原』の風情を詠んだ歌である。ぜひ萩の群落を保護し、公園にしてほしいと、一宮市に要望した。」市は、「萬葉公園設立」の計画を発表したが、万葉学者から、「六首のうちの二首は、当地と歌との結びつきは薄い」との指摘があり、計画は中断された。歌の解釈をめぐって、いわゆる「高松論争」が繰り広げられた。

 市は「万葉歌六首の地と明記せず、文化事業として萩を保護し、萬葉の古を偲ぶ市民の憩いの庭を造り、論争の成果を後日に期する」(設立趣旨書)として昭和三十二年(1957年)春、「一宮萬葉公園」を開園した、とある。

 なかなかに熱い公園である。

 

 歌碑の説明等のなかでおいおい解説を加えて行きたい。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「『高松論争』になった萬葉歌」 (一宮中ライオンズクラブ

★「一宮市HP」