万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2523)―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(有間皇子) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

         (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 


 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1193)」他で紹介している。

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一四一、一四二歌の題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 

柿本人麻呂の二二三歌の題詞は、「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国に在りて死に臨む時に、自(みづか)ら傷(いた)みて作る歌一首>である。

自傷」について、梅原 猛氏は、「水底の歌 柿本人麿論」(新潮文庫)に中で有間皇子の一四一歌の「自傷」に触れ、「・・・非業の死をと同じ表現である点に、その死が尋常な死でないことを感じさせる。『自傷』とは、どういうことか。自らの死を傷むとは、どういう場合にありうることか。死とは予期しがたく、実際にその死がきたときには、人間は意識を失っているはずである。それゆえ、自らの死が確実であるという意識が必要であろう。」と書かれている。

ほぼ「自らの死が確実であるという意識」の下で、「また帰り見む」と詠っているのである。「またここに立ち帰って(この松を)見ることがあろう。」

淡々とした詠いぶりであるがゆえに、「また帰り見む」のフレーズが、まさに嵐の前の静けさの如く静かに奥深く突き刺さって来るのである。

 

「また帰り見む」のフレーズを詠っている歌をみてみよう。

 

■三七歌■

◆雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟

      (柿本人麻呂 巻一 三七)

 

≪書き下し≫見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

 

(訳)見ても見ても見飽きることのない吉野の川、その川の常滑のように、絶えることなくまたやって来てこの滝の都を見よう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)とこなめ【常滑】名詞:苔(こけ)がついて滑らかな、川底の石。一説に、その石についている苔(こけ)とも。(学研)

(注)上三句は序。「絶ゆることなく」を起す。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その771)」で紹介している。

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■九一一歌■

三芳野之 秋津乃川之 万世尓 断事無 又還将見

       (笠金村 巻六 九一一)

 

≪書き下し≫み吉野の秋津(あきづ)の川の万代(よろずよ)に絶ゆることなくまたかへり見む

 

(訳)み吉野の秋津(あきづ)の川の流れが万代に絶えることがないように、絶えることなくまたやって来てこの滝の河内を見たいものだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

九〇七から九一二の歌群の題詞は、「養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首 幷短歌」<養老(やうらう)七年癸亥(みづのとゐ)の夏の五月に、吉野(よしの)の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

九〇七(長歌)、九〇八・九〇九は、「反歌二首」である。九一〇から九一二は「或本の反歌に日(い)はく」とあり、九〇八・九〇九歌の初案らしい。(伊藤脚注)

 

 

 

■一一〇〇歌■

◆巻向之 病足之川由 往水之 絶事無 又反将見

      (柿本人麻呂 巻七 一一〇〇)

 

≪書き下し≫巻向の穴師の川ゆ行く水の絶えることなくまたかへり見む

 

(訳)巻向の穴師の川を、こんこんと流れ行く水が絶えることのないように、繰り返し繰り返し、また何度もここにやって来て見よう。(同上)

(注)上三句は序。第四句を起す。(伊藤脚注)

(注)またかへり見む:「見る」の対象は穴師の川。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その72改)」で紹介している。

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■一一一四歌■

◆吾紐乎 妹手以而 結八川 又還見 万代左右荷

       (作者未詳 巻七 一一一四)

 

≪書き下し≫我が紐を妹が手もちて結八川またかへり見む万代までに

 

(訳)私の下紐をあの子の手で結(ゆ)い固める。その結うという名の結八(ゆうや)川、この川をまたここへやって来て見よう。いついつまでも。(同上)

(注)上二句は序。「結八川」を起す。(伊藤脚注)

(注)結八川:未詳。

 

 

 

■一一八三歌■

◆好去而 亦還見六 大夫乃 手二巻持在 鞆之浦廻乎

       (作者未詳 巻七 一一八三)

 

≪書き下し≫ま幸(さき)くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆(とも)の浦みを

 

(訳)無事でいてまた戻って来て見よう。ますらおが手に巻き持つ鞆と同じ名の、この鞆の浦のあたりを。(同上)

(注)「大夫の手に巻き持てる」は序。「鞆」を起こす。(伊藤脚注)

(注)とも【鞆】名詞:武具の一種。弓を射るとき、左手の手首に結び付ける、中に藁(わら)や獣毛を詰めた丸い革製の用具。弓弦(ゆづる)が手を打つのを防ぐためとも、手首の「釧(くしろ)」に弓弦が当たって切れるのを防ぐためともいう。(学研)

(注)鞆の浦広島県福山市鞆町(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1631)」で紹介している。

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■一六六八歌■

◆白埼者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧

      (作者未詳 巻九 一六六八)

 

≪書き下し≫白崎(しらさき)は幸(さき)くあり待て大船(おほぶね)に真梶(まかじ)しじ貫(ぬ)きまたかへり見む

 

(訳)白崎よ、お前は、どうか今の姿のままで待ち続けていておくれ。この大船の舷(ふなばた)に櫂(かい)をいっぱい貫(ぬ)き並べて、また立ち帰って来てお前を見よう(同上)

(注)白崎:和歌山県日高郡由良町。(伊藤脚注)

(注)また帰り見む:一四一の結句を意識している。(伊藤脚注)

 

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。

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■三〇五六歌■

◆妹門 去過不得而 草結 風吹解勿 又将顧  <一云 直相麻弖尓>

       (作者未詳 巻十二 三〇五六)

 

≪書き下し≫妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまたかへり見む <一には「直に逢ふまでに」といふ

 

(訳)いとしい子の門(かど)を素通りするにしかねて、せめてものことに私は草を結んで行く。風よ、吹いて解かないでくれ。またやって来て見ようから。<じかに逢うまでは>(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)草結ぶ:事の成就を祈る呪的行為。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2457)」で紹介している。

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■三二四〇歌■

◆王 命恐 雖見不飽 楢山越而 真木積 泉河乃 速瀬 竿刺渡 千速振 氏渡乃 多企都瀬乎 見乍渡而 近江道乃 相坂山丹 手向為 吾越徃者 樂浪乃 志我能韓埼 幸有者 又反見 道前 八十阿毎 嗟乍 吾過徃者 弥遠丹 里離来奴 弥高二 山文越来奴 劔刀 鞘従拔出而 伊香胡山 如何吾将為 徃邊不知而

       (作者未詳 巻十三 三二四〇)

 

≪書き下し≫大君の 命(みこと)畏(かしこ)み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木(まき)積む 泉(いずみ)の川の 早き瀬を 棹(さを)さし渡り ちはやぶる 宇治(うぢ)の渡りの たぎつ瀬を 見つつ渡りて 近江道(あふみぢ)の 逢坂山(あふさかやま)に 手向(たむ)けして 我(わ)が越え行けば 楽浪(ささなみ)の 志賀(しが)の唐崎(からさき) 幸(さき)くあらば またかへり見む 道の隈(くま) 八十隈(やそくま)ごとに 嘆きつつ 我(わ)が過ぎ行けば いや遠(とほ)に 里離(さか)り来ぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ 剣太刀(つるぎたち) 鞘(さや)ゆ抜き出(い)でて 伊香胡山(いかごやま) いかにか我(あ)がせむ ゆくへ知らずて

 

(訳)大君の仰せを恐れ謹んで、いくら見ても見飽きない奈良山を越えて、真木を積んで運ぶ泉の川の早瀬を、棹をさして渡り、ちはやぶる宇治の渡り所の逆巻く瀬を見守りながら渡って、近江道の逢坂山の神に手向けを供え私が越えて行くと、やがて楽浪の志賀の唐崎に着いたが、この唐崎の名のように事もなく幸くさえあれば立ち帰ってまたここを見ることができよう。こうして、数多い道の曲がり角ごとに、嘆きを重ねて私が通り過ぎて行くと、いよいよ遠く里は離れてしまった。いよいよ高く山も越えて来た。剣太刀を鞘から抜き出していかがせんという伊香胡山ではないが、私はいかがしたらよいのか、行く先いかになるともわからないで。(同上)

(注)まき【真木・槙】名詞:杉や檜(ひのき)などの常緑の針葉樹の総称。多く、檜にいう。 ※「ま」は接頭語。(学研)

(注)泉の川:木津川。木津付近は材木の集積地。(伊藤脚注)

(注)ちはやぶる【千早振る】分類枕詞:①荒々しい「氏(うぢ)」ということから、地名「宇治(うぢ)」にかかる。「ちはやぶる宇治の」。②荒々しい神ということから、「神」および「神」を含む語、「神」の名、「神社」の名などにかかる。(学研)

(注)ささなみの【細波の・楽浪の】分類枕詞:①琵琶(びわ)湖南西沿岸一帯を楽浪(ささなみ)といったことから、地名「大津」「志賀(しが)」「長等(ながら)」「比良(ひら)」などにかかる。「ささなみの長等」。②波は寄るところから「寄る」や同音の「夜」にかかる。「ささなみの寄り来る」 ⇒参考:『万葉集』には、①と同様の「ささなみの大津」「ささなみの志賀」「ささなみの比良」などの形が見えるが、これらは地名の限定に用いたものであって、枕詞(まくらことば)にはまだ固定していなかったともいわれる。「さざなみの」とも。(学研)

(注)剣大刀鞘ゆ抜き出でて:「伊香胡山」の序。男を刀身に、女を鞘に譬えた遊仙窟の「君今シ抜キ出デム後ハ、空シキ鞘をイカニカセム」に拠る。また「伊香胡山」までの三句も序を兼ね、「いかに」を起す。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1393)」で紹介している。

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一六六七から一六七九歌の歌群の題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

 

 このうちの一六六八歌の「またかへり見む」は、伊藤氏の脚注にあったように、一四一歌の結句(またかへり見む)を意識しているのである。

 

 他の「またかへり見む」は、今日の日常的な「また来ようね」とか「また見に来たいね」といったニュアンスに近いのである。

「自らの死が確実であるという意識」の下で、「また帰り見む」・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」