●歌は、「ま幸くてまたかへり見むますらをの手に巻き持てる鞆の浦みを」である。
●歌をみてみよう。
◆好去而 亦還見六 大夫乃 手二巻持在 鞆之浦廻乎
(作者未詳 巻七 一一八三)
≪書き下し≫ま幸(さき)くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆(とも)の浦みを
(訳)無事でいてまた戻って来て見よう。ますらおが手に巻き持つ鞆と同じ名の、この鞆の浦のあたりを。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)「大夫の手に巻き持てる」は序。「鞆」を起こす。
(注)とも【鞆】名詞:武具の一種。弓を射るとき、左手の手首に結び付ける、中に藁(わら)や獣毛を詰めた丸い革製の用具。弓弦(ゆづる)が手を打つのを防ぐためとも、手首の「釧(くしろ)」に弓弦が当たって切れるのを防ぐためともいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
一一八二歌も「鞆之浦」が詠まれている。こちらもみてみよう。
◆海人小船 帆毳張流登 見左右荷 鞆之浦廻二 浪立有所見
(作者未詳 巻七 一一八二)
≪書き下し≫海人小舟(あまをぶね)帆(ほ)かも張れると見るまでに鞆の浦みに波立てり見ゆ
(訳)海人の小舟が白い帆を張っていると思われるほどに、今しも、鞆の浦のあたりに白波がたっている。(同上)
この一一八二歌の歌碑は、グリーンランド後山展望園地にある。今回は時間の都合でパスせざるをえなかったのである。機会をみてリベンジしたいものである。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)については、同神社HPに、「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、大綿津見命(おおわたつみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)をお祀りしています。今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。」と書かれている。
■広島大学附属福山中・高等学校⇒沼名前神社
校内の歌碑をわざわざ案内してくださった方、一緒に歌碑を探してくれた学生さんたちとの出逢いの嬉しさがはじけんばかりの状態で次の目的地に車を走らす。
到着。参道を上る。きついが気分は軽やか。
瀟洒な随身門(神門)をくぐる。さらに参道石段を上る。社殿はなかなかに洒落た色合いの優美な造りである。流石、鞆の祇園である。境内左手の見晴らしの良い所に歌碑が設置されている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「沼名前神社HP」