■滋賀県高島市鵜川 四十八体石仏群参道万葉歌碑(巻九 一七三三)■
●歌をみていこう。
◆思乍 雖来ゝ不勝而 水尾埼 真長乃浦乎 又顧津
(碁師 巻九 一七三三)
≪書き下し≫思ひつつ来(く)れど来(き)かねて三尾(みを)の崎(さき)真長(まなが)の浦をまたかへり見つ
(訳)心ひかれながらも寄らずに来たけれど、やっぱり素通りしかねて、三尾の崎や真長の浦のあたりを、またまた振り返って見てしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)来かねて:素通りすることができず。(伊藤脚注)
(注)碁師:碁氏出身の法師か。(伊藤脚注))
(注)三尾の崎:琵琶湖の西岸、高島市の明神崎か。その北の岬とも。(伊藤脚注)
題詞は、「碁師歌二首」<碁師が歌二首>である。
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この歌ともう一首ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その248)」で紹介している。
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●歌をみてみよう。
◆何處可 舟乗為家牟 高嶋之 香取乃浦従 己藝出来船
(作者未詳 巻七 一一七二)
≪書き下し≫いづくにか舟乗(ふなの)りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出(で)来(く)る舟
(訳)どこの港から舟出してきたのであろう。高島の香取の浦を漕ぎ出してくるあの舟は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)香取の浦:勝野が原の近くか。
一一六九から一一七二歌までの四首は題詞「羇旅作」のなかにあり「近江」の歌である。ここの「羇旅作」は、吉野、山背、摂津以外の羇旅の歌である。
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その249)」で紹介している。
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■高島市勝野 関電高島変電所前万葉歌碑(巻三 二七五)■
●歌をみてみよう。
◆何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
(高市黒人 巻三 二七五)
≪書き下し≫いづくにか我(わ)が宿りせむ高島の勝野の原にこの日くれなば。
(訳)いったいどのあたりでわれらは宿をとることになるのだろうか。高島の勝野の原でこの一日が暮れてしまったならば。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
上二句で、「いづくにか我(わ)が宿りせむ」と、主観的に、不安を先立たせ、目の前の現実の土地「高島の勝野の原」に落とし込む。「この日くれなば」と状況を畳みかけているのである。夕暮れ迫る中、西近江路を急ぐ不安な気持ちが時を越えて伝わってくるのである。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その250)」で紹介している。
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■高島市勝野 乙女が池畔万葉歌碑(巻十一 二四三六)■
●歌をみていこう。
◆大船 香取海 慍下 何有人 物不念有
(柿本人麻呂歌集 巻十一 二四三六)
≪書き下し≫大船(おほぶね)の香取(かとり)の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ。
(訳)大船の香取の海にいかりを下ろすというではないが、この世のいかなる人が物思いをせずにいられるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)おほぶねの【大船の】分類枕詞:①大船が海上で揺れるようすから「たゆたふ」「ゆくらゆくら」「たゆ」にかかる。②大船を頼りにするところから「たのむ」「思ひたのむ」にかかる。③大船がとまるところから「津」「渡り」に、また、船の「かぢとり」に音が似るところから地名「香取(かとり)」にかかる。(学研)ここでは③の意
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その251)」で紹介している。
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歌碑の横にある、説明碑によると、「高島の地は、古くから大和と北陸地方を結ぶ北陸道(西近江路)と若狭路との分岐点にあって、水陸交通の要衝であったため『三尾駅・勝野津』がそれぞれ置かれていた。旅人の往来の多かった地は、古来より歌枕として数多くの歌を残している。
今からおよそ千三百年前の万葉の時代、三尾崎(明神崎)の北側のこの辺り一帯は、びわ湖が山麓に向かって深く湾入し、大きな入江をつくっていた。現在は内湖となり「乙女ヶ池」と呼ばれている。歌に詠まれている『香取の海』は、この内湖の地を指したもので、香取海(浦)の北端に『勝野津』の港があったものと思われる。(後略)」とある。
この地を語るに、天平宝字八年(764年)の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱を避けては通れない。
藤原仲麻呂の乱については、「コトバンク 朝日日本歴史人物事典」に「・・・光明皇太后が没すると淳仁天皇・仲麻呂と孝謙上皇の間は疎遠となり、道鏡の処遇をめぐって両者の不和は表面化した。やがてこれは皇権の分裂に発展することになった。経済情勢の悪化も手伝い仲麻呂政権は非勢に追いこまれていく。その事態を挽回すべく、同8年9月、都督四畿内三関近江丹波播磨等兵事使という非常の権力手段を使って手兵を集めて反乱を企てようとしたが、計画は事前に発覚して失敗に終わった。都から追われた仲麻呂は近江(滋賀県)、越前(福井県)を転々とし、最後に近江湖西の勝野の鬼江(滋賀県高島町)で捕らえられ、一族党類と共に斬首された(藤原仲麻呂の乱)。・・・」
■高島市勝野 大溝漁港万葉歌碑(巻七 一一七一)■
●歌をみていこう。
◆大御船 竟而佐守布 高嶋之 三尾勝野之 奈伎左思所念
(作者未詳 巻七 一一七一)
≪書き下し≫大御船(おほみふね)泊(は)ててさもらふ高島(たかしま)の三尾(みを)の勝野(かつの)の渚(なぎさ)し思ほゆ
(訳)大君のお召の船が泊まって風待ちをした、高島の三尾の勝野の、渚のさまがはるかに思いやられる。(同上)
(注)さもらふ 【候ふ・侍ふ】:ようすを見ながら機会をうかがう。見守る。(学研)
(注)高島の三尾の勝野:滋賀県高島市。琵琶湖西岸の野。(伊藤脚注)
■高島市永田 しろふじ保育園南万葉歌碑(巻九 一六九一)■
●歌をみていこう。
◆客在者 三更刺而 照月 高嶋山 隠情毛
(柿本人麻呂歌集 巻九 一六九一)
≪書き下し≫旅にあれば夜中(よなか)をさして照る月の高島山に隠(かく)らく惜しも
(訳)家恋しい旅の身空とて、ま夜中に向けてひとしお明るく照りわたる月が、高島の山に隠れてしまうのは残念でたまらない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)夜中をさして:真夜中を目ざして。月が天心に近づくさま。(伊藤脚注)
題詞は、「高島作歌二首」<高島にして作る歌二首>である。
一一七一歌は拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その252)」で、一六九一歌は、同「同(その253)」で紹介している。
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■高島市勝野 高島郵便局前万葉歌碑(巻九 一七三三)■
●歌をみていこう。
◆思乍 雖来ゝ不勝而 水尾埼 真長乃浦乎 又顧津
(碁師 巻九 一七三三)
≪書き下し≫思ひつつ来(く)れど来(き)かねて三尾(みを)の崎(さき)真長(まなが)の浦をまたかへり見つ
(訳)心ひかれながらも寄らずに来たけれど、やっぱり素通りしかねて、三尾の崎や真長の浦のあたりを、またまた振り返って見てしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)碁師:碁氏出身の法師か。(同上)
(注)三尾の崎:琵琶湖の西岸、高島市の明神崎か。その北の岬とも。(同上)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その254)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク 朝日日本歴史人物事典」