万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その249)―高島市音羽 音羽古墳公園―

●歌は、「いづくにか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟」である。

 

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高島市音羽 音羽古墳公園万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、高島市音羽 音羽古墳公園にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆何處可 舟乗為家牟 高嶋之 香取乃浦従 己藝出来船

(作者未詳 巻七 一一七二)

 

≪書き下し≫いづくにか舟乗(ふなの)りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出(で)来(く)る舟

 

(訳)どこの港から舟出してきたのであろう。高島の香取の浦を漕ぎ出してくるあの舟は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)香取の浦:勝野が原の近くか。

一一六九から一一七二歌までの四首は題詞「羇旅作」のなかにあり「近江」の歌である。ここの「羇旅作」は、吉野、山背、摂津以外の羇旅の歌である。

 

他の近江三首をみてみよう。

 

◆近江之海 湖者八十 何尓加 公之舟泊 草結兼

              (作者未詳 巻七 一一六九)

 

≪書き下し≫近江(あふみ)の海(うみ)港は八十(やそ)ちいづくにか君が舟泊(は)て草結びけむ 

 

(訳)近江の海、この海の港は数知れない。そのどこにあの方は舟を泊めて、草を結んで一夜の宿りをされたのであろうか。(同上)

(注)やそ【八十】名詞:八十(はちじゆう)。数の多いこと。

参考「やそ川」「やそ国」「やそ隈(くま)」など、数多くの意での接頭語的な用法も多い。

 ※「やそち」のちは、物を数える助数詞(同上)

 

◆佐左浪乃 連庫山尓 雲居者 雨曽零智否 反来吾背

              (作者未詳 巻七 一一七〇)

 

≪書き下し≫楽浪(ささなみ)の連庫山(なみくらやま)に雲居(ゐ)れば雨ぞ降るちふ帰り来(こ)我(わ)が背(せ)

 

(訳)楽浪(ささなみ)の連庫山(なみくらやま)に雲がかかると、必ず雨が降ると言います。帰っていらっしゃい、あなた。(同上)

(注)連庫山(なみくらやま):所在未詳。比良山かともいう。(同上)

 

◆大御舟 竟而佐守布 高嶋之 三尾勝野之 奈伎左思所念

               (作者未詳 巻七 一一七一)

 

≪書き下し≫大御船(おほみふね)泊(は)ててさもらふ高島(たかしま)の三尾(みを)の勝野(かつの)の渚(なぎさ)し思ほゆ 

 

(訳)大君のお召の船が泊まって風待ちをした、高島の三尾の勝野の、渚のさまがはるかに思いやられる。(同上)

(注)さもらふ 【候ふ・侍ふ】:ようすを見ながら機会をうかがう。見守る。

(注)三尾(みを)の勝野(かつの):滋賀県高島市。琵琶湖西岸の野。

 

 高島を詠んだ歌が万葉集には数多く収録されている。西近江路と呼ばれた、今の国道一六一号線に相当する道である。滋賀県,琵琶湖西岸を南北に通る古代の北陸道である。京都から大津,高島市海津を経て福井県敦賀市にいたる。敦賀から海津までを七里半越または七里半街道とも呼ばれた。高島は当時の交通の要所であった。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 越中国守として赴任した大伴家持もこの道を通ったのであろう。

 

ナビに従い音羽古墳公園の近くまで来た。「大炊(おおい)神社」と「長谷寺」が並んでおりそこから先は登山道になっており車では行けない。神社近くの空き地に車を止め音羽古墳公園を探すが案内板もない。運よく、大炊神社の境内を清掃している方がおられたので、道を尋ねる。

 登山道を少し登り、左手の川を渡ってしばらく行くと音羽古墳公園があるとのこと。少し登ると、ゲートがあり、「お願い(獣害対策)開けたら必ず閉めてください」の看板がかかっている。道を教えてもらってなければ、ここで引き返していたはずである。

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獣害対策ゲート

 そこを通り抜け、しばらく行くと「音羽の里」の説明案内板があった。

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音羽の里」説明案内板

 ようやく、左手に小川が見えて来た。ところが、12日に上陸した台風19号による影響で増水しており、しかも飛石の一部は流されたのか、まともに渡れそうな箇所が見当たらない。幸い水は澄んでおり、石の間は砂地で足元はさほど悪くはない。せっかくここまで来たのだからと、意を決し裸足になる。そろりそろりと渡る。予想以上に冷たい水である。渡り切って間もなく「音羽古墳公園」の案内板があり、その斜め左手に「巻七 一一七二」の歌碑があった。

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音羽古墳公園」の案内板


 

(注)音羽古墳群については、「びわ湖高島観光ガイド:(公社)びわ湖高島観光協会」によると、「比良山地の北限にあります。この古墳群は6世紀後半から7世紀初頭にかけての典型的村落形群集墳で全体として約50基から成っています。音羽古墳群の被葬については定かではありませんが、今からおよそ1400年前この地に勢力を持っていた一族の家族墓であろうと推定されます。」とある。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「高島 万葉歌碑めぐり(前篇・後編)」(琵琶レイクオーツカHP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「びわ湖高島観光ガイド」 (<公社>びわ湖高島観光協会HP)

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」

 

 

※20230505朝食関連記事削除、一部改訂