●歌は、「早来ても見てましものを山背の多賀の槻群散りにけるかも」である。
●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。
●歌をみていこう。
二七〇から二七七歌の歌群の題詞は、「高市連黒人羈旅歌八首」<高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が羈旅(きりょ)の歌八首>である。
◆速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去毛奚留鴨
(高市黒人 巻三 二七七)
≪書き下し≫早(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)の多賀の槻群(たかのつきむら)散にけるかも
(訳)もっと早くやって来て見たらよかったのに。山背の多賀のもみじした欅(けやき)、この欅林(けやきばやし)は、もうすっかり散ってしまっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)早来ても:旅から早く帰って来ての意か。(伊藤脚注)
(注)つき 【槻】名詞:木の名。けやきの古名か。 ※弓を作る材に用いる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌ならびに「羈旅歌八首」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その483)」で紹介しているが、今一度振り返ってみてみよう。
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■二七〇歌■
◆客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保舡 奥榜所見(二七〇歌)
(高市連黒人 巻三 二七〇)
≪書き下し≫旅にしてもの恋(こひ)しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船(ふね)沖に漕(こ)ぐ見ゆ
(訳)旅先にあって妻(つま)恋しく思っている時に、ふと見ると、先ほどまで山の下にいた朱塗りの船が沖のかなたを漕ぎ進んでいる。(同上)
(注)この冒頭歌だけ地名がない。(伊藤脚注)
(注)そほぶね【赭舟】名詞:赤土を塗った舟。「そほふね」とも。(学研)
■二七一歌■
◆櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡(二七一歌)
(高市連黒人 巻三 二七一)
≪書き下し≫桜田 (さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴鳴き渡る
(訳)桜田の方へ、鶴が群れ鳴き渡って行く。年魚市潟(あゆちがた)では潮が引いたらしい。今しも鶴が鳴き渡って行く。(同上)
(注)年魚市潟:名古屋市南部の、入海であった所。(伊藤脚注)
■二七二歌■
◆四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟
(高市連黒人 巻三 二七二)
≪書き下し≫四極山(しはつやま)うち越(こ)え見れば笠縫(かさぬひ)の島漕(こ)ぎ隠(かく)る棚(たな)なし小舟(をぶね)
(訳)四極山を越えて海上を見わたすと、笠縫(かさぬい)の島陰に漕ぎ隠れようとする小舟が見える。(同上)
(注)四極山:前歌より東。愛知県幡豆郡幡豆町・吉良町付近。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1459)」で紹介している。
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■二七三歌■
◆礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 未詳
(高市連黒人 巻三 二七三)
≪書き下し≫磯(いそ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)海(うみ)八十(やそ)の港(みなと)に鶴(たづ)さはに鳴く 未詳
(注)未詳とあるが、二七四、二七五歌の近江の歌と同じ折か不明、の意らしい。(伊藤脚注)
(訳)磯の崎を漕ぎめぐって行くと、近江の海、この海にそそぐ川の河口ごとに、鶴がたくさんうち群れて鳴き騒いでいる。(同上)
(注)磯(いそ)の崎(さき):岩石の多い岬。以下三首、近江での歌。北陸への途中の途中か。(伊藤脚注)
(注)八十(やそ)の港(みなと):たくさんの河口。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その410)」で紹介している。
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■二七四歌■
◆吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去來()
(高市連黒人 巻三 二七四)
≪書き下し≫我(わ)が舟は比良(ひら)の港に漕(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜(よ)更(ふ)けにけり
(訳)われらの舟は比良の港でとまることにしよう。沖の方へ離れてくれるなよ。もはや夜も更けてきたことだし。(同上)
(注)比良の港:大津市比良山の東麓あたり。(伊藤脚注)
■二七五歌■
◆何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
(高市連黒人 巻三 二七五)
≪書き下し≫いづくにか我(わ)が宿りせむ高島(たかしま)の勝野(かつの)の原にこの日暮れなば
(訳)いったいどのあたりでわれらは宿を取ることになるのだろうか。高島の勝野の原でこの一日が暮れてしまったならば。(同上)
(注)高島:高島市。前歌の大津市比良より北。以下陸行の感慨(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その250)」で紹介している。
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■二七六歌■
◆妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
(高市連黒人 巻三 二七六)
一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去
≪書き下し≫妹も我(あ)れも一つなれかも三河(みかは)なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる
一本には「三河の二見の道ゆ別れなば我(わ)が背(せ)も我(あ)れも一人かも行かむ」といふ
(訳)あなたも私も一つだからでありましょうか、三河の国の二見の道で、別れようとしてなかなか別れられないのは。(同上)
一本「三河の国の二見の道でお別れしてしまったならば、あなたも私も、これから先一人ぼっちで旅行くことになるのでしょうか。
(注)妹:(ここでは)旅先で出逢った遊行女婦か。(伊藤脚注)
(注)二見:豊川市の国府(こう)町と御油(ごゆ)町との境、東海道と姫街道の分岐点か。以下三句、数の遊びがある。(伊藤脚注)
(注の注)ひめかいどう【姫街道】:江戸時代、東海道の脇街道の一。見付宿の先から浜名湖の北岸を回り、本坂ほんざか峠を越えて御油宿へ至る道。女性の多くが今切いまぎれの渡しと新居関あらいのせきを避けてこの街道を通ったことによる名。本坂越え。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1460)」で紹介している。
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高市黒人の歌碑としては、近江神宮境内の歌碑が思い浮かぶ。この歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その235)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」