●歌は、「ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き」である。
●歌をみていこう。
◆黒玉之 夜去来者 巻向之 川音高之母 荒足鴨疾
(柿本人麻呂 巻七 一一〇一
≪書き下し≫ぬばたまの夜(よる)さり来(く)れば巻向の川音(かはおと)高しもあらしかも疾(と)き
(訳)夜がやってくると、巻向の川音が高く響き渡る。山おろしの風が激しいのであろうか。
堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「いちだんとはげしさを加えていく穴師の水音を如実にうたっている。山おろしの吹く斎槻が嶽一帯の光景をよく把握して、神の風土における山河の音を見事に自分のものとした。」と書かれている。
題詞は、「河を詠む」であり、左注は、「右の二首は、柿本朝臣人麻呂歌集に出づ」である。
もう一首も見てみよう。
◆巻向之 病足之川由 往水之 絶事無 又反将見
(柿本人麻呂 巻七 一一〇〇)
≪書き下し≫巻向の穴師の川ゆ行く水の絶えることなくまたかへり見む
(訳)巻向の穴師の川を、こんこんと流れ行く水が絶えることのないように、繰り返し繰り返し、また何度もここにやって来て見よう。
山の辺の道や、桧原井寺池等の歌碑を巡ったが、県道50号線沿いの歌碑を探し出しえなかったのがあるので、帰宅後グーグルアースを使い50号線上を丹念に探る。桜井市HPの万葉歌碑マップを頼りに、周辺を探っていく。歌碑らしいものを発見、歌碑に近づけ確認をとる。側道に入ったところにある歌碑もこうして見つけ、走ったところの目星をつける。(4月22日)
二日連続の歌碑めぐりである。桧原神社近くの柿本人麻呂の歌碑や玄賓庵なども視野に入れ再挑戦する。(4月23日)
この歌碑は、県道50号線から少し入ったところの山の辺の道への三叉路の所にあった。歌碑の写真を取り、引き返そうとする。Y字型であるので車をバックさせハンドルを切るも結構狭い。山の辺の道方面から歩いてきた5人連れの人が見かねて誘導してくれる。助かった。
お礼を言い、そこを後にし、桧原神社を目指す。
奈良県のHP「はじめての万葉集」にこの歌の解説があるので、抜粋させていただく。(一部加筆)
「巻向」は現在の桜井市で三輪の北方にあり、今も箸墓をはじめとする古墳や、垂仁(すいにん)天皇の纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)跡伝承地などが古代を偲ばせている。
JR万葉まほろば(桜井)線の巻向駅から東へ進むと、景行(けいこう)天皇の纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)跡伝承地や穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社がある。このあたりが、今「穴師」とよばれている。
ただし『万葉集』では「痛足」(写本によっては「病足」とも)と表記されており、「痛足の川」は巻向川が穴師付近を流れる際の呼称であると考えられている
この歌は痛足川(穴師川)を流れる水が絶えないように、絶え間なくこの川を見続けよう、と痛足川を褒め称えている。
『万葉集』にはこれとよく似た歌、「見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む」(巻一の三七番歌)がる。これは、吉野行幸の時に柿本人麻呂が詠んだ歌で、吉野川を褒め称えた内容となっている。
「柿本朝臣人麻呂歌集」は『万葉集』より古い歌集で、柿本人麻呂によって編纂されたと思われていますが、残念ながら現存しない。
『万葉集』に収録されている「人麻呂歌集」には、巻向を詠んだ歌がいくつかある。また巻向の地で「妹」を詠んだ歌も多く、巻向から北へいった天理市の櫟本を柿本人麻呂の出身地とする伝承があるので、考えあわせると想像が膨らむという。
堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「『絶ゆることなくまたかへり見む』とうたうのは、巻向、穴師の土地への切なる愛着で、ただその土地に隠し妻がいたということだけでなく、その女性が参加しただろう神祭りに、人麻呂はさわやかな感動を味わったとみるべきである。」と述べておられる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)
※20240406朝食関連記事削除、一部改訂