万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2505)―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート)(橘 諸兄) 20230927撮影 ※プレートは、橘奈良麻呂となっているが正しくは橘 諸兄である。

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

四四四六から四四四八歌の歌群の題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅三首」<同じ月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

       (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えてま新しそうに咲くように。あじさいは色の変わるごとに新しい花が咲くような印象をあたえる。(伊藤脚注)

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。上の「八重」を承けて「八つ代」といったもの。(伊藤脚注)

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。

 

 

橘諸兄の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1005)」および同「同(その1019)」の2回に分けて紹介していたが、今一度全てをみていこう。

 

■一〇二五歌■

一〇二四から一〇二七歌の題詞は、「秋八月廿日宴右大臣橘家歌四首」<秋の八月の二十日に、右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌四首>である。

(注)右大臣橘家:橘諸兄邸。右大臣にはこの年天平十年一月十三日に就任。(伊藤脚注)

 

橘諸兄は、天平九年(737年)天然痘が大流行し藤原不比等の四子(房前、麻呂、武智麻呂、宇合)が相次いで没し藤原政権が一時的に崩壊し王族出身者が新政権を担い、旧氏族(大野・巨勢・大伴・県犬養氏)が活気づいたのである。

 

◆奥真経而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歳 有巨勢奴香聞

       (橘諸兄 巻六 一〇二五)

 

≪書き下し≫奥(おく)まへて我(わ)れを思へる我(わ)が背子(せこ)は千年(ちとせ)五百年(いほとせ)ありこせぬかも

 

(訳)心の奥深くに秘めて私を思っていて下さるあなたこそ、五百年も千年も生きていて欲しいものです。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)おく【奥】名詞:①物の内部に深く入った所。②奥の間。③(書物・手紙などの)最後の部分。④「陸奥(みちのく)」の略。▽「道の奥」の意。⑤遠い将来。未来。行く末。⑥心の奥。(学研)ここでは⑥の意

(注)こせぬかも 分類連語:…してくれないかなあ。 ※動詞の連用形に付いて、詠嘆的にあつらえ望む意を表す。 ⇒ なりたち 助動詞「こす」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

 

 

■一五七四歌■

 一五七四から一五八〇歌の題詞は、「右大臣橘家宴歌七首」<右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌七首>である。

なお、左注は、「天平十年戌寅秋八月廿日」<天平十年戌寅(つちのえとら)の秋の八月二十日>である。

(注)先の一〇二五歌の題詞と同じ日付であり、どうやら分けて編纂収録されたようである。

 

◆雲上尓 鳴奈流鴈之 雖遠 君将相跡 手廻来津

        (橘諸兄 巻八 一五七四)

 

≪書き下し≫雲の上(うへ)に鳴くなる雁(かり)の遠けども君に逢はむとた廻(もとほ)り来(き)つ

 

(訳)雲の上で鳴いている雁のように、遠い所ではありますが、あなた様にお目にかかろうと、めぐりめぐりしてやって参りました。(同上)

(注)上二句は序。「遠けども」を起す。(伊藤脚注)

(注)た廻(もとほ)り来(き)つ:遠路はるばるやって来た。宴は、奈良京から離れた井手の別邸(京都府綴喜郡)で行われた。(伊藤脚注)

(注の注)たもとほる【徘徊る】自動詞:行ったり来たりする。歩き回る。 ※「た」は接頭語。上代語。(学研)

 

 

 

■一五七五歌■

◆雲上尓 鳴都流鴈乃 寒苗 芽子乃下葉者 黄變可毛

       (橘諸兄 巻八 一五七五)

 

≪書き下し≫雲の上(うへ)に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉(したば)はもみちぬるかも

 

(訳)雲の上で鳴いた雁の声が寒々と感じられる折も折、お屋敷一帯の萩の下葉はすっかり色づきましたね。何と見事なことでしょう。(同上)

(注)なへ 接続助詞:《接続》活用語の連体形に付く。〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。 ※上代語。中古にも和歌に用例があるが、上代語の名残である。(学研)

 なお、一五七四・一五七五歌の二首については、伊藤 博氏は脚注において、「主賓高橋安麻呂の歌らしい」と書かれている。

 

 一〇二五・一五七四・一五七五歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1005)」で紹介している。

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■三九二二歌■

 題詞は、「左大臣橘宿祢應詔歌一首」<左大臣宿禰(たちばなのすくね)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。

 

◆布流由吉乃 之路髪麻泥尓 大皇尓 都可倍麻都礼婆 貴久母安流香

       (橘諸兄 巻十七 三九二二)

 

≪書き下し≫降る雪の白髪(しろかみ)までに大君(おほきみ)に仕(つか)へまつれば貴(たふと)くもあるか

 

(訳)降り積もる雪のようにまっ白な髪になるまでも、大君にお仕えさせていただけたことは、何とまあ貴くもったいないことか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、序および三九二二から三九二六歌までとともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1706)」で紹介している。

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■四〇五六歌■

 題詞は、「左大臣橘宿祢歌一首」<左大臣宿禰(たちばなのすくね)が歌一首>である。

 

◆保里江尓波 多麻之可麻之乎 大皇乎 美敷祢許我牟登 可年弖之里勢婆

       (橘諸兄 巻十八 四〇五六)

 

≪書き下し≫堀江(ほりえ)には玉敷かましを大君(おほきみ)を御船(みふね)漕(こ)がむとかねて知りせば

 

(訳)堀江には玉を敷き詰めておくのでしたのに。我が大君、大君がここで御船を召してお遊びになると、前もって存じ上げていたなら。(同上)

(注)堀江:難波の堀江。今の天満橋あたりの大川。(伊藤脚注)

 

 この歌については、四〇五六から四〇六二歌の紹介とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。

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■四二七〇歌■

 題詞は、「十一月八日在於左大臣朝臣宅肆宴歌四首」<十一月の八日に、左大臣朝臣(たちばなのあそみ)が宅(いへ)に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌四首>である。

(注)肆宴(しえん):宮中等の公的な宴のこと。

 

◆牟具良波布 伊也之伎屋戸母 大皇之 座牟等知者 玉之可麻思乎

                (橘諸兄 巻十九 四二七〇)

 

≪書き下し≫葎(むぐら)延(は)ふ賤(いや)しきやども大君(おほきみ)の座(ま)さむと知らば玉敷かまし

 

(訳)葎の生い茂るむさくるしい我が家、こんな所にも、大君がお出まし下さると存じましたなら、前もって玉を敷きつめておくのでしたのに。(同上)

 

 左注は、「右一首左大臣橘卿」<右の一首は左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その190改)」で四二六九から四二七二歌とともに紹介している。

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■四四四七歌

◆麻比之都ゝ 伎美我於保世流 奈弖之故我 波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓

       (橘諸兄 巻二十 四四四七)

 

≪書き下し>賄(まひ)しつつ君が生(お)ほせるなでしこが花のみ問(と)はむ君ならなくに 

 

(訳)贈り物をしてはあなたがたいせつに育てているなでしこ、あなたは、そのなでしこの花だけに問いかけるようなお方ではないはずです。(同上)

(注)花のみ問はむ君ならなくに:あなたはそのなでしこの花だけに問いかけるような、実のない方ではないはず。逆説的な感謝。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首左大臣和歌」<右の一首は、左大臣が和(こた)ふる歌>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その467)」で四四四六から四四四八歌とともに紹介している。

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■四四五四歌■

題詞は、「十一月廿八日左大臣集於兵部卿橘奈良麻呂朝臣宅宴歌一首」<十一月の二十八日に、左大臣兵部卿橘奈良麻呂朝臣が宅(いへ)にて宴する歌一首>である。

 

◆高山乃 伊波保尓於布流 須我乃根能 祢母許呂其呂尓 布里於久白雪

       (橘諸兄 巻二十 四四五四)

 

≪書き下し≫高山(たかやま)の巌(いはほ)に生(お)ふる菅(すが)の根(ね)のねもころごろに降り置く白雪

 

(訳)高い山の巌に根をおろしている菅の根ではないが、ねんごろに隅々まで置いている白雪の、まあ何と鮮やかなこと(同上)

(注)上三句は序。「ねもころごろに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)ねもころごろに:根がびっしり凝り固まっているさま。下の雪に対しては、隅々までの意。(伊藤脚注)

(注の注)ねもころごろなり【懇ごろなり】形容動詞:①細やかだ。ねんごろだ。②隅々まで行き届いている。(学研)

 

左注は、「右一首左大臣作」<右の一首は、左大臣作る>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1019)」で紹介している。

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■四四五五歌■

 題詞は、「天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首 副芹子褁」<天平元年の班田(はんでん)の時に、使(つかひ)の葛城王(かづらきのおほきみ)、山背の国より薩妙観命婦等(せちめうくわんみやうぶら)の所に贈る歌一首 芹子(せり)の褁に副ふ>である。

(注)天平元年:729年。この十一月に平城京畿内の班田司が任命された。(伊藤脚注)

(注の注)【班田収授の法】:律令制で、人民に耕地を分割する法。中国、唐の均田法にならい、大化の改新の後に採用されたもので、6年ごとに班田を実施し、6歳以上の良民の男子に2段、良民の女子と官戸・公奴婢(くぬひ)にはその3分の2、家人・私奴婢には良民男女のそれぞれ3分の1の口分田(くぶんでん)を与えた。終身の使用を許し、死亡の際に国家に収めた。平安初期以後は実行が困難になった。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)みゃうぶ【命婦】名詞:宮中や後宮(こうきゆう)の女官の一つ。五位以上の女官(内(ない)命婦)と、五位以上の役人の妻(外(げ)命婦)がある。平安時代以後は、中級の女官をいう。(学研)

 

◆安可祢佐須 比流波多ゝ婢弖 奴婆多麻乃 欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼

       (葛城王 巻二十 四四五五)

 

≪書き下し≫あかねさす昼は田(た)賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹子(せり)これ

 

(訳)日の照る昼には田を班(わか)ち与えるのに手を取られ、暗い夜の暇を盗んで摘んだ芹ですぞ、これは。(同上)

(注)田(た)賜(た)びて:田を班(わか)ち与えるのに手を取られ。

 

左注は、「右二首左大臣讀之云尓 左大臣葛城王 後賜橘姓也」<右二首は、左大臣読みてしか云ふ 左大臣はこれ葛城王にして、 後に橘の姓を賜はる>である。

 

この歌については、薩妙観命婦の機智に富んだ報(こた)へ贈る四四五六歌とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1213)」で紹介している。

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本稿で、ライオンズ広場万葉の森シリーズは終わります。

次稿は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑シリーズとなります。

引きつづきよろしくお願いいたします

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉