春日大社北参道を春日大社萬葉植物園に行く途中に2つ並んで歌碑は立てられている。
山上憶良の歌碑ならびに歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その61改、62改)」で紹介している。
➡
■元興寺万葉歌碑(巻六 一〇一八)■
■元興寺塔跡万葉歌碑(巻六 九九二)■
■奈良町資料館万葉歌碑(巻六 一〇一八)■
元興寺、元興寺塔址、奈良町資料館の歌碑ならびに歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その39改・40改・41改)」で紹介している。
➡
平城京に置かれた東市ならびに西市に関する歌碑をみてみよう。(西市の歌碑は大和郡山市にあるが、ここに掲載させていただきます。)
■奈良市杏町辰市神社万葉歌碑(巻三 三一〇)■
●歌をみていこう。
題詞は、「門部王詠東市之樹作歌一首 後賜姓大原真人(おほはらのまひと)氏也」<門部王(かどべのおほきみ)、東(ひむがし)の市(いち)の樹(き)をめて作る歌一首 後に姓大原真人(おほはらのまひと)の氏を賜はる>である。
◆東 市之殖木乃 木足左右 不相久美 宇倍戀尓家利
(門部王 巻三 三一〇)
≪書き下し≫東(ひみかし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢(あ)はず久しみうべ恋ひにけり
(訳)東の市の並木の枝がこんなに垂れ下がるようになるまで、あなたに久しく逢っていないものだから、こんなに恋しくなるのも当然だ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)こだる【木垂る】自動詞:木が茂って枝が垂れ下がる。 ⇒参考 一説に、「木足る」で、枝葉が十分に茂る意とする。(学研)
(注)うべ【宜・諾】副詞:なるほど。もっともなことに。▽肯定の意を表す。 ※中古以降「むべ」とも表記する。(学研)
新版 万葉集 一 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ] 価格:1,056円 |
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その23改)」で紹介している。
➡
■奈良県大和郡山市 平城京西市跡万葉歌碑(巻七 一二六四)■
●歌をみていこう。
◆西市尓 但獨出而 眼不並 買師絹之 商自許里鴨
(作者未詳 巻七 一二六四)
≪書き下し≫西(にし)の市(いち)にただ一人出(い)でて目並(めなら)べず買ひてし絹(きぬ)の商(あき)じこりかも
(訳)西の市にたったひとりで出かけて、見比べもせずに買ってしまった絹、その絹はたいへんな買い損ないであったよ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)めならぶ【目並ぶ】他動詞:並べて見比べる。一説に、多くの人の目を経る。(同上)
(注)商(あき)じこり:買い損ない。歌垣で選んだ相手が見掛け倒しであったことをいう。(伊藤脚注)
新版 万葉集 二 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ] 価格:1,100円 |
この歌碑ならびに歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その384)」で紹介している。
➡
■西大寺境内鐘楼前万葉歌碑(巻十九 四二六八)
●歌をみてみよう。
◆此里者 継而霜哉置 夏野尓 吾見之草波 毛美知多里家利
(孝謙天皇 巻十九 四二六八)
≪書き下し≫この里は継(つ)ぎて霜や置く夏の野に 我が見し草はもみちたりけり
(訳)この里は年中ひっきりなしに霜が置くのであろうか。夏の野で私がさっき見た草は、もうこのように色づいている。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「天皇太后共幸於大納言藤原家之日黄葉澤蘭一株抜取令持内侍佐ゝ貴山君遣賜大納言藤原卿幷陪従大夫等御歌一首 命婦誦日」<天皇(すめらみこと)、太后(おほきさき)、共に大納言藤原家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭一株(さはあららぎひともと)を抜き取りて、内侍(ないし)佐々貴山君(ささきのやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原卿(ふぢはらのまえつきみ)と陪従(べいじゅ)の大夫(だいぶ)等(ら)とに遣(つかは)し賜ふ御歌一首 命婦(みやうぶ)誦(よ)みて日(い)はく>である。
(注)大納言:藤原仲麻呂
(注)内侍:内侍の司(つかさ)の女官。天皇の身辺に仕え、祭祀を司る。
(注)陪従大夫:供奉する廷臣たち
新版 万葉集 四 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ] 価格:1,068円 |
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その35改)」で紹介している。
➡
題詞にあるように、「孝謙天皇、光明皇后が共に大納言藤原仲麻呂の家に幸(いでま)」しているのである。
光明皇后は藤原不比等の娘であるから、孝謙天皇は孫にあたる。仲麻呂も不比等の孫であるので、ここに藤原一族の確固たる政治基盤が出来上がったのである。
■平城京羅城門跡公園万葉歌碑(巻三 三二八)■
平城京羅城門跡公園を西に100m行ったところに羅城門橋が架かっている。
奈良県HP「奈良県景観資産―朱雀大路を体感できる羅城門橋付近―」に「この付近には奈良時代に羅城門があり、この場所から遠方に小さく見える朱雀門(復元)まで平城京の朱雀大路が通っていました。朱雀大路は幅が75mあり、平城京の南端の羅城門から平城宮の玄関である朱雀門まで4kmにわたり続くメインストリートです。朱雀門の先には大極殿(復元)の屋根が重なって見えます。羅城門は外国からの使節を歓迎する外交儀礼の場所であり、また雨乞いが行われる宗教的な場所でもありました。」と書かれている。
この歌碑ならびに歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その15改)」で紹介している。
➡
■JR平城山駅前(巻三 三〇〇)、近鉄高の原駅(巻一 八四)、同駅前(巻十 一八八七)■
JR平城山駅前(巻三 三〇〇)の歌碑ならびに歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その31改)で紹介している。
➡
近鉄高の原駅(巻一 八四)ならびに同駅前(巻十 一八八七)は、「同(その25の1改、25の2改)」で紹介している。
➡
まだまだ奈良市内の神社やお寺の境内に万葉歌碑はありますが割愛させていただきます。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」