万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1369)ー福井県越前市 万葉の里味真野苑(11)―万葉集 巻十八 四〇七一

●歌は、「しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ」である。

f:id:tom101010:20220307204540j:plain

福井県越前市 万葉の里味真野苑(11)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、福井県越前市 万葉の里味真野苑(11)にある。

 

●歌をみていこう。

 

之奈射可流 故之能吉美良等 可久之許曽 楊奈疑可豆良枳 多努之久安蘇婆米

      (大伴家持 巻十八 四〇七一)

 

≪書き下し≫しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ

 

(訳)山野層々として都から遠く隔たったこの越の国のあなた方と、これからもこのように柳を縵(かずら)にして楽しく遊ぼう。(同上)

 

左注は、「右郡司已下子弟已上諸人多集此會 因守大伴宿祢家持作此歌也」<右は、郡司已下(ぐんしいげ)、子弟已上の諸人(もろひと)、多くこの会に集(つど)ふ。よりて、守(かみ)大伴宿禰家持、この歌を作る>である。

この歌ならびに「しなざかる」を詠った歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1350裏)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1350裏)」でも引用させていただいたので、重複しますが「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム)の「しなざかる」をもう一度みてみよう。

「枕詞。地名、越(こし)にかかる。意味・かかり方は未詳。『しなざかる』は万葉集では『大君の 任けのまにまに しなざかる(之奈射加流) 越を治めに 出でて来し ますら我す』(17-3969)の家持作歌が初出で、他に家持に3例(18-4071、19-4154、19-4250)坂上郎女作歌に1例(19-4220)のみ用いられている枕詞である。『しな』は階段・階層などの意があり、『さかる』は離れる・遠ざかるの意であろうから、階層が離れているといった意。また越が多くの坂を越えた遠い土地の意からともいわれる。『天ざかる』『鄙ざかる』などの連想から家持が作った枕詞であろうか。初出の3969は家持と池主のやりとりの1首であるが、そこでは頻繁に『天離る』が用いられており、都を高しとし、鄙を低しとする考え方から、天と鄙の関係を、越に家持が転換させたと考えられる。」

 

 「しなざかる」についてのポイントは、①枕詞。地名、越(こし)にかかる。意味・かかり方は未詳、②家持が四首、坂上郎女が一首に用いている、③『天ざかる』『鄙ざかる』などの連想から家持が作った枕詞であろう、の3点があげられる。

 

 連想の元となった「天離る」および「鄙離る」を調べてみよう。

 

 あまざかる【天離る】分類枕詞:天遠く離れている地の意から、「鄙(ひな)」にかかる。「あまさかる」とも。(学研)

 

ひなさかる【鄙離る】自動詞:遠い田舎にある。都から遠く離れている。(学研)

 

 

 「天離る鄙」が万葉集で最初に登場するのは、題詞「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」の巻一 二九歌の「・・・天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の・・・」である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その247)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 そして次に登場するのが、巻二 二二七歌である。「天離る鄙の荒野(あらの)に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし」(作者未詳 巻二 二二七)

 

 左注は、「右一首歌作者未詳 但古本以此歌載於此次也」<右の一首の歌は、作者未詳、ただし、古本この歌をもちてこの次に載す>である。

(注)古本:いかなる本とも知られていない。一五・一九歌の左注にある「旧本」とは別の本らしい。(伊藤脚注)

 

 この歌は、「鴨山五首」の一首で人麻呂の歌を集めて作られたものという。

(巻一 二九歌)「・・・天離る鄙にはあれど石走る近江の国の楽浪の大津の宮に・・・」

(巻一 四七歌)「ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し」

(巻二 二二五歌)「衾道を引手の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1270)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 その次が、「柿本人麻呂が羇旅の歌八首」の巻三 二五五歌「天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」である。

 

 「天離る鄙」は近江であり明石である。近江は旧都であったことを考えると興味深い。

 上野 誠氏は、その著「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(中公新書)の中で、「・・・『万葉集』は京と地方を往来する文学という側面を持っている。荒っぽく言えば、

     京=みやこの文学

     地方=ひなの文学

ということになる。『万葉集』は、その交流の文学なのだ。」と書かれている。

 この考え方により「ひな」は「みやこ」以外の地と考えてよいだろう。

 

 越中国の守という地位は、大伴家持のような、いわば当時のエリートにとって、越中の国に「飛ばされた」という気持ちが強かったのではないかと思われる。夏目漱石の「坊ちゃん」の気持ちであったのだろう。

 四〇七一歌「しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ」は、越の国の人たちを一段高い所から見た感じが強く、「天離る鄙」「鄙離る越」どころではないこのような「鄙は鄙でも・・・」という気持ちを押し殺しつつ、自己を正統化、誇りあるものとして位置づけるべく作り出したのではないかと思われる。

 

「しなざかる越」を使った歌をみてみよう。

 

◆・・・大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに しなざかる 越(こし)を治(おさ)めに 出(い)でて来(こ)し ますら我れすら・・・

大伴家持 巻十七 三九六九)

 

(訳)・・・大君の仰せのままに、幾重にも山坂を重ね隔てた越(こし)の国を治めにやって来た、一かどの官人であるはずの私、その私としたことが、・・・

 

 家持が最初に「しなざかる」を使った歌であるが、越中に赴任して最初の正月を迎え病に倒れ池主との歌のやり取りしたうちの一首であるが、「大君の仰せ」にエリート意識のよりどころを求め、鄙どころではない越の国で病に倒れ、ずたずたになった自己を支えている言葉のように思える。なんで、この俺が、こんなところで、こんな目にあわなければならないのだ、と叫びたいが、そこはエリート、しらっと自分を押し殺し「しなざかる越」と詠ったのであろう。

 

 

 次は、題詞「八日に、白き大鷹を詠む歌一首 幷せて短歌」である。

◆あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒(を)長く しなざかる 越(こし)にし住めば 大君(おほきみ)の 敷きます国は 都をも ここも同(おや)じと 心には 思ふものから・・・

       (大伴家持 巻十九 四一五四)

 

 

(訳)険しい山や坂を越えてはるばるやって来て、改まる年月長く、山野層々と重なって都離れたこの越の国に住んでいると、大君の治めておられる国であるからには、都もここも違わないと心では思ってみるものの・・・(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌にも「大君(おほきみ)の 敷きます国は 都をも ここも同(おや)じ・・・」と言いつつ嘆き節に変わっていくのである。

 

 

之奈謝可流 越尓五箇年 住ゝ而 立別麻久 惜初夜可毛

      (大伴家持 巻十九 四二五〇)

 

≪書き下し≫しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも

 

(訳)都を離れて山野層々たる越の国に、五年ものあいだ住み続けて、今宵かぎりに立ち別れゆかねばならぬと思うと、名残惜しい。(同上)

 

 「立ち別れまく惜しき宵かも」と詠ってはいるが、その本心は、「少納言への栄転」という自己のエリート意識が今にも爆発しそうな気持を「しなざかる越」で抑え込んでいるように思えるのである。よくまあ、五年も辛抱できたものだ、さあ少納言として頑張りさらなる高みをめざすぞ、といった気持ちが「五年住み住みて」に表れている。

 

 

「鄙離る」は、次の作者未詳歌「巻十三 三二九一歌」にある。

三芳野之 真木立山尓 青生 山菅之根乃 慇懃 吾念君者 天皇之 遣之万ゝ<或本云 王 命恐> 夷離 國治尓登 <或本云 天踈 夷治尓等> 群鳥之 朝立行者 後有 我可将戀奈 客有者 君可将思 言牟為便 将為須便不知 <或書有 足日木 山之木末尓 句也> 延津田乃 歸之 <或本無歸之句也> 別之數 惜物可聞

       (作者未詳 巻十三 三二九一)

 

≪書き下し≫み吉野の 真木(まき)立つ山に 青く生(お)ふる 山菅(やますが)の根の ねもころに 我(あ)が思(おも)ふ君は 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに <或本には「大君の 命畏み」といふ> 鄙離(ひなざか)る 国治(をさ)めにと <或本には「天離る 鄙治めにと」といふ> 群鳥(むらとり)の 朝立(あさだ)ち去(い)なば 後(おく)れたる 我(あ)れか恋ひむな 旅なれば 君か偲(しの)はむ 言はむすべ 為(せ)むすべ知らず<或書には「あしひきの山の木末に」の句あり> 延(は)ふ蔦(つた)の 行きの <或本には「行きの」句なし> 別れのあまた 惜しきものかも

 

(訳)み吉野の真木の茂り立つ山に、青々と生い茂る山菅の根、その根ではないが、ねんごろに心の底から私のお慕いしているあなたは、今、大君の御命令のままに<大君の仰せを恐れ謹んで>、都を遠く離れた鄙の国を治めるため<遠い鄙を治めるため>、群鳥のように朝早く出で立って行かれる、こうして行ってしまわれたなら、あとに残されたこの私はどんなに苦しみにさいなまれることか。旅先なのだからあなたも家を偲んでどんなにかさびしい思いをされることでしょう。ああ、どう言っていいのか、どうすればよいのか、手だてとてなく、<或書には「あしひきの山の木末に」という句がある>、這(は)い廻る蔦が延びて<或本には「行きの」の句がない>また別れるというではないが、お別れするのがひどく惜しまれてなりません。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1159)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「鄙離る国」は、「都を遠く離れた鄙の国」で「天離る鄙」という言い方も或る本には見られると注釈がついている。

 

 家持の「鄙離る国」の歌をみてみよう。巻十九 四二一四歌である。

 

「・・・官にしあれば 大君の 命畏み 鄙離る 国を治むと・・・」と詠っている。

左注には「大伴宿禰家持、婿の南の右大臣家の藤原二郎が慈母を喪(うしな)ふ患(うれ)へを弔(とぶら)ふ」あり、右大臣家とも親戚関係を構築しているある意味したたかさがにじみ出る歌である。

自分の立ち位置を、「大君の 命畏み」、「都を遠く遠く離れた鄙の国」でへりくだるのに「鄙離る国」という言葉を使っている。

 

 一般的な「天離る鄙」は多用はしているが、家持にとって「鄙」はどうしようもない鄙、超ド田舎的意味合いが強く、越=鄙、心中では鄙の鄙と思っているが、越=鄙は自分をも貶めてしまうので、越の国あるいは越の人に気を使って「しなざかる越」としたのではなかろうか。

 屈辱のエリートの自己を見失わないがための言葉であったのかもしれない

 坂上郎女の四二二〇歌は、娘大嬢が、家持の越国に下向した時に詠った歌であるので、家持の影響を受け、大変なところであるが、娘大嬢ならびに娘婿の家持がを「鄙」でなく「しなざかる越」に「ますらをの引きのまにまに」下向したのであるから、「鄙」とは使いたくなかったのではないか。郎女も、自身や家持、娘大嬢のプライドを勘案しての結果であったのではないかと思われる。

 この歌についても冒頭のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1350)」で紹介している。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアム