●歌は、「剣大刀いよよ磨ぐべしいにしへゆさやけく負ひて来にしその名ぞ」である。
●歌をみていこう。
四四六五~四四六七の歌群の題詞は、「喩族歌一首幷短歌」<族(うがら)を喩(さと)す歌一首幷(あは)せて短歌>である。
◆都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之師曽乃名曽 (大伴家持 巻二十 四四六七)
≪書き下し≫剣大刀(つるぎたち)いよよ磨(と)ぐべしいにしへゆさやけく負ひて来(き)にしその名ぞ
(訳)剣太刀を研ぐというではないが心をいよいよ磨ぎ澄まして張りつめるべきだ。遠く遥かな御代から紛れもなく負い持って来た大伴という由来高き名なのだ。(伊藤 博 著 「万葉集 ㈣」角川ソフィア文庫より)
(注)つるぎたち【剣太刀】分類枕詞:①刀剣は身に帯びることから「身にそふ」にかかる。②刀剣の刃を古くは「な」といったことから「名」「汝(な)」にかかる。③刀剣は研ぐことから「とぐ」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは③の意
(注)いよよ【愈】副詞:なおその上に。いよいよ。いっそう。(学研)
(注)ゆ 格助詞:《接続》体言、活用語の連体形に付く。①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段〕…で。…によって。④〔比較の基準〕…より。 ⇒ 参考 上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。(学研)
(注)さやけし【清けし・明けし】形容詞:①明るい。明るくてすがすがしい。清い。②すがすがしい。きよく澄んでいる。 ⇒ 参考 「さやけし」と「きよし」の違い 「さやけし」は、「光・音などが澄んでいて、また明るくて、すがすがしいようす」を表し、「きよし」も同様の意味を表すが、「さやけし」は対象から受ける感じ、「きよし」は対象そのもののようすをいうことが多い。(学研)
四四六五から四四六七の歌群の左注は、「右縁淡海真人三船讒言出雲守大伴古慈斐宿祢解任 是以家持作此歌也」<右は、淡海真人三船(あふみのまひとみふね)が讒言(ざんげん)によりて、出雲守(いずものかみ)大伴古慈斐宿禰(おほとものこしびのすくね)、任(にん)を解(と)かゆ。ここをもちて、家持この歌を作る>である。
(注)大伴古慈斐宿禰(おほとものこしびのすくね)、任(にん)を解(と)かゆ:聖武天皇崩御八日目、五月十日の事件。ただし続日本紀には、藤原仲麻呂の讒言で古慈斐と三船が捕らえられたとある。仲麻呂に求められて讒言した三船が、その後仲麻呂に讒言されたのが真相か。(伊藤脚注)
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家持は、天平勝宝三年(751年)に少納言に任ぜられ越中生活に終わりをつげ都にもどるのである。しかし、大伴家と橘家があがめる聖武天皇は病気がちで、力を持たれなくなっていた。さらに橘諸兄も藤原仲麻呂の巧みな謀略により、政治的には影を潜めていくのである。
光明皇太后、孝謙天皇、藤原仲麻呂の勢力の台頭が著しくなってくる。(光明皇太后は藤原不比等の娘で、孝謙天皇は不比等の孫にあたる。仲麻呂も不比等の孫である。即ち藤原氏が権力を握って来るのである。)
天平勝宝八歳(756年)二月、大伴家がよりどころにしていた左大臣橘諸兄が藤原仲麻呂一派に誣告され、自ら官を退くという事態に追い込まれたのである。
さらに同年五月三日、聖武太上天皇も崩御されたのである。すると待っていたかのように同年五月十日、左注にあるように、大伴一族の長老格の出雲守大伴古慈悲(こしび)と淡海三船(おうみのみふね)が朝廷を誹謗したかどで捕えられたのである。仲麻呂の讒言によるものであったという。仲麻呂のあからさまな挑戦である。
驚いた氏の上(かみ)の家持が「族(うがら)を喩(さと)す歌」(四四六五歌)を詠み、反仲麻呂に立ち上がらないことの意思表明を行ったのである。しかし、この期に及んでこの歌がどれほどの力をもったのであろうか。また家持も一族にあってどれほどの指導力を有していたのかは疑問であった。
天平勝宝九歳(757年)正月、橘諸兄が失意の中に世を去った。
同年四月には、仲麻呂と縁のある大炊王(おおいのおおきみ)が皇太子となったのである。(三月に聖武天皇の遺詔によって立てられた道祖王(ふなどのおおきみ)が廃されている)あきらかに仲麻呂の筋書きによるものであった。
六月には勅令により氏族の兵力に制限が加えられた。
事ここにいたり、家持の気持は汲み取られることなく七月四日、大伴一族の大半は、藤原氏の勢力に反発する橘奈良麻呂を中核に、佐伯氏らとともに藤原仲麻呂打倒を図ったのである。(橘奈良麻呂の変)
かくして、告発や密告により連座した者は根こそぎ葬られたのである。ただ家持は事変の圏外にあってひとり身を守ったのである。親交の深かった池主も歴史から名を消したのである。
「族(うがら)を喩(さと)す歌」(四四六五歌)ならびに短歌(四四六六、四四六七歌)を含む家持が六月十七日に作った歌六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1128)」で紹介している。
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大伴池主との親交ぶりについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1021)」で紹介している。
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「族(うがら)を喩(さと)す歌」(四四六五歌)ならびに短歌(四四六六、四四六七歌)に続く四四六八、四四六九歌の 題詞は、「病に臥して無常(むじょう)を悲しび、道を修(をさ)めむと欲(おも)ひて作る歌二首」であり、四四七〇歌のそれは、「寿(いのち)を願ひて作る歌一首」である。
この題詞からも、この時の家持の気持が推し量れるのである。「氏の上(かみ)」であった家持の決断に対し、一族はいわば無視した形で変に加担、根こそぎ葬られたのある。歴史は動いたのである。この時家持は40歳であった。
万葉集は家持の四五一六歌、「因幡の国の庁にして・・・」で終わっている。この時42歳。あきらかに左遷である。
その後、紆余曲折を経て、延暦二年(783年)66歳の時に中納言になっている。
家持がこの世を去ったのは、延暦四年(785年)68歳である。
そして権勢を欲しいままにした藤原仲麻呂も天平宝字八年(764年)、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱を起したのである。
有間皇子、大津皇子、柿本人麻呂、大伴池主、藤原仲麻呂は、いずれも反逆者であるが、万葉集にはいずれも収録されている。ある意味政治的な立場を超越した許容性を有しているといえるのである。
万葉集の魅力は、このようなところにもあるといえよう。
多面的アプローチが必要なまさにモンスター歌集である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」