万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1938)―岐阜県養老町 元正天皇行幸遺跡(2)―万葉集 巻六 一〇三五

●歌は、「田跡川の滝を清みかいにしへゆ宮仕へけむ多芸の野の上に」である。

岐阜県養老町 元正天皇行幸遺跡(2)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、岐阜県養老町 元正天皇行幸遺跡(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「大伴宿祢家持作歌一首」<大伴宿禰家持が作る歌一首>である。    

 

◆田跡河之 瀧乎清美香 従古 官仕兼 多藝乃野之上尓

       (大伴家持 巻六 一〇三五)

 

≪書き下し≫田跡川(たどかわ)の滝を清みかいにしへゆ宮仕(みやつか)へけむ多芸(たぎ)の野の上(へ)に 

 

(訳)田跡川(たどかわ)の滝が清らかなので、遠く古い時代からこうして宮仕えしてきたのであろうか。ここ多芸の野の上で。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より) 

(注)田跡川:養老川。養老の滝に発し揖斐川に注ぐ。(伊藤脚注)

(注)みやづかふ【宮仕ふ】自動詞:①宮殿の造営に奉仕する。②宮中や貴人に奉公する。(学研)

元正天皇行幸遺跡

 「元正天皇行幸遺跡」碑の背面に家持の歌は刻されている。 

 この歌については、天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱に端を発し、聖武天皇は、十月二十九日平城京を出発、伊勢・美濃。近江を経て久邇の宮に帰着、ここを都としたその間の歌(一〇二九から一〇三七歌)とともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その184改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 一〇二九から一〇三七歌の題詞、左注に「行宮(かりみや)」という言葉が出て来る。

 「河口の行宮」(一〇二九歌の題詞)、「朝明の行宮」(一〇三〇歌の左注)、「狭浅の行宮」(一〇三二歌の題詞)、「多芸の行宮」(一〇三四歌の題詞)、「不破の行宮」(一〇三六歌の題詞)である。

 それぞれの場所は次のとおりと考えられている。(伊藤脚注による)

 「河口の行宮」は、三重県津市白山町川口。

「朝明」は、朝明川流域、三重郡朝日町付近か。

「狭浅」は、所在不詳。

「多芸」は、岐阜県養老郡養老町付近か。

「不破」は、岐阜県不破郡垂井町府中付近か。

 

「行宮」については、「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアムHP)に次の様に書かれている。

 

「行宮(かりみや):行幸などで一時的に滞在するための宮殿。②新宮を建設するまでの仮宮殿。①高市皇子挽歌には、壬申の乱のできごととして『不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして』(2-199)と詠み込まれている。和射見が原は、岐阜県不破郡関ヶ原町の不破山より東に位置する。天武紀では、大海人皇子天武天皇)が伊勢国から美濃国入りしており、672(天武元)年6月27日条に『天皇、玆に、行宮を野上に興して居します』と記された行宮のことを指すのかともいわれる。左注に引用された『類聚歌林』には、661(斉明7)年1月14日のできごととして『御船、伊予の熟田津の石湯の行宮に泊つ』(1-8左注)とある。692(朱鳥6=持統6)年に行われた行幸には、中納言三輪朝臣高市麻呂が冠位を投げ捨てて農繁期前の実施を諫めたエピソードが披露され、持統天皇が聞き入れないまま伊勢へ出立し、5月6日に『阿胡の行宮に御す』(1-44左注)とある。740(天平12)年の東国巡行に関わる作歌には、『伊勢国に幸せる時に、河口の行宮にして、内舎人大伴宿祢家持が作る歌一首』(6-1029題詞)『狭残の行宮にして、大伴宿祢家持が作る歌二首』(6-1032,1033題詞)『美濃国の多芸の行宮にして、大伴宿祢東人の作る歌一首』(6-1034題詞)『不破の行宮にして、大伴宿祢家持が作る歌一首』(6-1036題詞)と、大伴家に関わる歌のみに行宮の行程が記される。その間に位置する歌についても、行宮を基準とする作歌事情の検証(6-1030・6-1031)が記され、仮宮を基準とする編集上の趣向を見て取ることができる。歌語としてより、題詞や左注のような記録的な表現として定着してゆく。紀の神武即位前紀乙卯年3月6日条には、『吉備国に入り、行館(かりみや)を起てて居します。』と具体的な建造物としての様相がうかがわれる。②紀の743(皇極2)年1月28日条には、『権宮(かりみや)より移りて飛鳥板蓋新宮に幸す』とみえる。)

 

 この一〇二九から一〇三七歌の歌群は、「行宮の行程が記され」、「記録的な表現として定着してゆく」基礎を作ったものであるといえよう。

 巻十五の、実録的ドキュメンタリーの萌芽が見られるともいえるのではないか。

 

 

 

■猿沢の池・采女神社を訪ねて■

 12月24日は、奈良に出かける用事があったので、久しぶりに「猿沢の池」の周りを散策した。

猿沢の池

 「大和物語」に書かれている、奈良時代天皇の寵愛が薄れたことを嘆き、猿沢池に身を投じた采女の霊を慰めるために建てられた(社殿は猿沢の池を背にして建っている)という采女神社に行って見たかったのである。

采女神社の由緒

 

 

 「鴨山五首」をブログで紹介するにあたり、梅原猛著「水底の歌 柿本人麿論」(新潮文庫)を参考にさせていただいたが、その中で、古今集の序文に記されている、平城天皇柿本人麻呂の共感を語るものとして、十世紀にできたといわれる『大和物語』の百五十段の舞台となった猿沢の池の辺に同神社は建てられている。

 梅原猛氏は、柿本人麻呂の刑死(水死)を展開されているのであるが、「・・・平城天皇と人麿の間に一種の共感が成り立つのであるが、水を縁にして成り立っていることに注意する必要がある」と書かれている。

 さらに、「七大寺巡礼私記」から「・・・世人伝へて云(いは)く、平城天皇、淳和(じゅんな)天皇との合戦の時、平城天皇に后(きさき)、自ら彼池に投じて溺れ死に給ふ云々・・・」と「・・・女はただの采女でなく皇后である。自殺の原因は愛の悲劇ではなく、政治の悲劇であろう。どちらが真実か分からぬが、猿沢の池には長くそのよな伝承が伝わっていた。」とも書かれている。

謡曲采女」と采女への哀悼歌

 「大和物語百五十段」に書かれている歌を、みてみよう。

 

わぎもこのねくたれ髪を猿沢の池の玉藻(たまも)とみるぞかなしき

      (柿本人麻呂

 

(訳)私のいとしい女よ、寝乱れたお前の髪を猿沢の池の玉藻と見るのは、まことに悲しいものだ。(梅原猛 「水底の歌 柿本人麿論(上)」より)

(注)ねくたれがみ【寝腐れ髪】名詞:寝乱れた髪。(学研)

 

 

◆猿沢の池もつらしな吾妹子(わぎもこ)がたまもかづかば水ぞひなまし

 

(訳)猿沢の池まで恨めしい。私の愛する女が玉藻をまとったとき、水が乾けばよかったのに。(同上)

(注)つらし【辛し】形容詞:①薄情だ。冷淡だ。つれない。②たえがたい。苦痛だ。つらい。 ⇒「つらう」はウ音便。(学研)

 

 

 幼稚園の遠足で、トレーラーバスに乗ってきたことが甦ってきた。それ以来、猿沢の池といえば亀の印象しかなかったが、万葉集のおかげでこのような悲話を知ることが出来たのである。柿本人麿と柿本猨(さる)や猿丸大夫との猿沢の池の「猨・猿」つながりや如何。

まだまだ勉強がたりません。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアムHP)

★「観光スポット 采女神社」 (公益社団法人 奈良市観光協会HP)