●歌は、「ほととぎすなほも鳴かむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「先太上天皇御製霍公鳥歌一首 日本根子高瑞日清足姫天皇也」<先太上天皇(さきのおほきすめらみこと)の御製、霍公鳥(ほととぎす)の歌一首 日本根子高瑞日清足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめ)なり>である。
◆冨等登藝須 奈保毛奈賀那牟 母等都比等 可氣都ゝ母等奈 安乎祢之奈久母
(元正天皇 巻二十 四四三七)
≪書き下し≫ほととぎすなほも鳴かなむ本(もと)つ人かけつつもとな我(あ)を音(ね)し泣くも
(訳)時鳥(ほととぎす)よ、どうせ鳴くならもっと鳴くがよい。お前は、亡き人、その人の名をむやみに呼んだりして、やたら私を泣かせるよ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)本つ人かけつつもとな我を音し泣くも:お前は亡き人の名をむやみに呼んだりして私をやたらと泣かせる。父草壁、弟文武、母元明が時の元正天皇にとっての亡き人。(伊藤脚(注)もとつひと【元つ人】名詞:昔なじみの人。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)
元正天皇(げんしょうてんのう 680―748):第44代の天皇(在位715~724)。和風諡号(しごう)は日本根子高瑞浄足姫(やまとねこたかみずきよたらしひめ)天皇。諱(いみな)は氷高(ひだか)。父は草壁皇子。母は元明(げんめい)天皇。文武(もんむ)天皇の姉。715年(霊亀1)母元明天皇の後を継いで即位した。当時皇太子として首(おびと)皇子(聖武(しょうむ))があったが、まだ14歳であり、身体も虚弱であったらしく、皇嗣(こうし)候補として有力な他の天武諸皇子を抑えるため、元正天皇が即位したと推定される。在位9年ののち、724年(神亀1)甥聖武に譲位した。その治世の間の重要な事件として、717年(養老1)遣唐使派遣、718年藤原不比等(ふひと)らによる養老律令編纂(りつりょうへんさん)完了。720年『日本書紀』完成。同年藤原不比等没。長屋王政権の成立。大隅隼人(おおすみはやと)の反乱。721年元明上皇没。723年良田100万町歩開墾計画と三世一身法制定などがある。美濃(みの)多度山醴泉(たどさんれいせん)(いわゆる養老の滝)への再度の行幸も有名。聖武天皇に譲位後も、政治に対し隠然たる勢力を及ぼしたと推測される。難波(なにわ)京、和泉監(いずみのげん)離宮へしばしば行幸した。大和(やまと)奈保山西(なほやまのにし)陵に葬られた。(コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))
10月19日一般道から養老SA上り「ぷらっとパーク」に車を停め、SAの売店で買い物である。手土産や昼食等に「ぎふ旅コイン」6000ポイントを使いきる。
「養老町教育委員会HP 養老町の歴史文化資源」に「養老公園石碑コース<時間18分2秒 距離 1.66km>」について書かれており、コース略地図と各石碑の写真が載っている。お目当ての「元正太上帝万葉歌碑」や「元正天皇行幸遺跡」の万葉歌碑は、このコースには含まれていない。
岐阜県観光連盟から送っていただいた資料の「養老公園マップ」を参照して、養老公園入口駐車場に車を停め、万葉歌碑巡りであるから、「元正太上帝万葉歌碑」をスタートに「元正天皇行幸遺跡」、「養老神社」そしてゴールを「養老の滝」と大まかな計画を立てた。
養老公園入口駐車場に車を停める。予定通り「元正天皇行幸遺跡」に到着する。
「元正天皇行幸遺跡」の石柱の背面の家持の歌を撮影。すぐ後ろにある「元正太上天皇万葉歌碑」も撮影。
先達のブログによると「養老公園・『元正天皇行幸遺跡』」にある歌碑の写真が紹介されている。
この時点では、「遺跡」にあるあるのは、「元正太上天皇万葉歌碑」であり、マップや案内図の「元正太上帝万葉歌碑」は別物と信じていたのであった。
略地図をもとに「元正太上帝万葉歌碑」を探索する。
また探索中にお逢いした何人かの方に尋ねたが結局わからずじまいであった。(後日、
「元正太上帝万葉歌碑」と「元正太上天皇万葉歌碑」は同じものであることが分かった。一つでも多く万葉歌碑を巡りたいとの思いに駆り立てられたのであった。)
養老公園入口駐車場にある「養老公園案内板」には「元正太上帝万葉歌碑」と「『元正天皇行幸古蹟」と書かれている。
「養老改元」について、岐阜県庁HP「元正天皇行幸遺跡」に「元正天皇は、霊亀3年(717)9月、近江国を経て美濃国当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山の美泉を見、駕に随う国司らに物を与え、不破・当耆・方県・務義諸郡の百姓に減税などの恩恵を施した。同年11月には詔勅を出し、この多度山の美泉について、病が癒えるなどの効験が大きく、これは大瑞であると述べ、養老への改元を布告した。このような美濃への行幸と養老改元については、当時、美濃守であった笠朝臣麻呂と美濃介藤原朝臣麻呂の果たした役割が大きかったと考えられているが、多芸郡の地が行幸の対象とされ、そこの「美泉」が政治的にも重要な意義をもっていたと考えられる。行幸の際に行宮が造られたとされるが、その場所は不明である。また、『美泉』が何を指すのかについては、養老の滝と現養老神社内の湧水との二説がある。」と書かれている。
岐阜県養老町の元正天皇行幸遺跡を訪れいろいろ調べるうちに、元正天皇を身近に感じ、12月8日、元正天皇奈保山西陵と母である元明天皇の東陵を訪れたのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「岐阜県庁HP」