万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(2245~2247)

―その2245―

●歌は、「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」である。

名古屋市千種区東山元町 東山動植物園万葉の散歩道万葉歌碑(プレート)<聖武天皇> 20210216撮影

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山動植物園万葉の散歩道にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>である。

(注)左大弁(さだいべん)葛城王橘諸兄

 

◆橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹

        (聖武天皇 巻六 一〇〇九)

 

≪書き下し≫橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹

 

(訳)橘の木は、実も花もめでたく、そしてその葉さえ、冬、枝に霜が降っても、ますます栄えるめでたい木であるぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いや 感動詞:①やあ。いやはや。▽驚いたときや、嘆息したときに発する語。②やあ。▽気がついて思い出したときに発する語。③よう。あいや。▽人に呼びかけるときに発する語。④やあ。それ。▽はやしたてる掛け声。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇ゝ后共在于皇后宮以為肆宴而即御製賀橘之歌并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇ゝ后御歌各有一首者其歌遺落未得探求焉 今檢案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢」<右は、冬の十一月の九日に、従三位葛城王従四位上佐為王等(さゐのおほきみたち)、皇族の高き名を辞(いな)び、外家(ぐわいか)の橘の姓を賜はること已訖(をは)りぬ。その時に、太上天皇(おほきすめらのみこと)・皇后(おほきさき)、ともに皇后の宮に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)をなし、すなはち橘を賀(ほ)く歌を御製(つく)らし、并(あは)せて御酒(みき)を宿禰等(すくねたち)に賜ふ。或(ある)いは「この歌一首は太上天皇の御歌。ただし、天皇・皇后の御歌おのもおのも一首あり」といふ。その歌遺(う)せ落(お)ちて、いまだ探(たづ)ね求むること得ず。今案内(あんない)に検(ただ)すに、「八年の十一月の九日に、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表(へう)を上(たてまつ)る。十七日をもちて、表の乞(ねがひ)によりて橘宿禰を賜ふ」。と>

 

 左注の意味は、「右の歌は、冬11月9日、従三位葛城王橘諸兄)、従四位上佐為王(橘佐為)等、皇族の高名ある地位を辞して、外家の橘の姓を賜わる。このとき、太上天皇(たいじょうてんのう: 元正天皇)、皇后が共に皇后宮においでになり、宴を催されて橘を祝う歌をお作りになり、併(あわ)せて橘宿祢(たちばなのすくね)らに御酒を賜わる。また、この歌は太上天皇の歌とも云われている。但し、聖武天皇と皇后の歌がそれぞれ一首あったとのこと。その歌は無くなっており、探し求めることができない。今、調べてみると、天平八年十一月九日に葛城王(かつらぎのおおきみ)たちが橘宿祢(たちばなのすくね)の姓を申請し、一七日に橘宿祢を賜わったとある。」

(注)外家(ぐわいか):母方の家。葛城王らの母、県犬養宿禰三千代は、和銅元年(708年)橘宿禰の姓を下賜された。(伊藤脚注)

(注の注)ぐわいか【外家】:外戚(がいせき)の家。母方の親族。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)太上天皇(おほきすめらのみこと):先帝、元正天皇。(伊藤脚注)

(注)皇后(おほきさき):光明皇后藤原不比等の娘。(伊藤脚注)

 

 橘諸兄の子、橘奈良麻呂が、次代を担うものとして詔(みことのり)に応じた歌(一〇一〇歌)が続いて収録されている。こちらもみてみよう。

(注)この時の奈良麻呂は、一五,六歳。

 

 題詞は、「橘宿祢奈良麻呂應詔歌一首」<橘宿禰奈良麻呂(たちばなのすくねならまろ)詔(みことのり)に応(こた)ふる歌一首>である。

 

◆奥山之 真木葉凌 零雪乃 零者雖益 地尓落目八方

       (橘奈良麻呂 巻六 一〇一〇)

 

≪書き下し≫奥山(おくやま)の真木(まき)の葉しのぎ降る雪の降りは増すとも地(つち)に落ちめやも

 

(訳)奥山の真木の葉を押し伏せて降り積もる雪がどんなに降り増そうとも、そしてどんなに年が古り行こうとも、橘の実が地に落ちることなどありましょうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)降り増そうの「降り」には「古り」を懸けている。(伊藤脚注)

(注)地に落ちめやも:主語は、橘の実

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 

 一〇一〇歌ならびに一〇〇九歌について、奈良県HP「はじめての万葉集(vol.93)」に詳しく書かれているので長いですが、引用させていただきます。

 

「橘の賀歌

 この歌には『橘宿禰(すくね)奈良麻呂の、詔(みことのり)に応(こた)へたる歌一首』という題詞があります。橘諸兄(たちばなのもろえ)の子・奈良麻呂が、聖武天皇(あるいは元正上皇)のお言葉に応じて詠んだ歌です。この歌の意味を考えるには、一つ前の歌から見ておく必要があります。

橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉(とこは)の樹

(橘は実までも花までも輝き、その葉まで枝に霜が降りてもますます常緑である樹よ。/一〇〇九番歌)

 ご存じの方もおられると思います。私自身、リズムがよくて好きな歌の一つです。ものすごく橘をほめたたえていますね。題詞に『冬十一月に、左大弁葛城王等(さだいべんかづらきのおほきみたち)に姓橘氏を賜ひし時の御製歌一首』とある通り、天平八(七三六)年十一月に葛城王橘諸兄)が橘の姓を賜った時の歌です。左注には元正上皇聖武天皇光明皇后が宴席でそれぞれ『橘を賀(ほ)く歌』を作った、とあり、一〇〇九番歌の作者は一説に元正上皇かといわれています。橘諸兄は敏達(びだつ)天皇の子孫ですが、母方の橘姓を願い出て臣籍に降りました。その賜姓を祝うため、このように橘が永遠であることが歌われています。

 記紀にも、垂仁(すいにん)天皇の時代にタヂマモリ常世国から橘を持ち帰ったという伝えがあります。橘は「時じくの香菓(かくのみ)」とも呼ばれ、時を定めず(いつも)よい香のする輝かしい果実だとされていました。

 さて、一〇〇九番歌では『霜』が、一〇一〇番歌では『雪』が詠まれます。これは、和銅元(七〇八)年、諸兄の母県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)が橘姓を称した際の元明天皇の勅に『(橘の)柯(えだ)は霜雪を凌いで繁茂(しげ)る』とあるのをふまえたものです。『地に落ちない』(一〇一〇番歌)のは橘のことで、苦難があっても橘氏の力が衰えないことを自ら表明しています。この時奈良麻呂は十五、六歳。この堂々たる歌いぶり、実際は諸兄が作った歌ではないかという説があります。

 この翌年、疫病(天然痘)の流行により藤原四子が次々に亡くなり、諸兄が政権を握ります。橘の名にふさわしく輝き、正一位にまで昇りました。(本文 万葉文化館 阪口由佳)」            

 

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 一〇〇九・一〇一〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1044)」で橘奈良麻呂の変にもふれている。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 聖武天皇橘諸兄VS光明皇后藤原仲麻呂の図式の誕生であり、橘奈良麻呂の変をこの時点で誰が想像したであろうか。

 万葉集からも歴史の歯車を見ることができるのである。

 



 

 

―2246―

●歌は、「からたちの茨刈り除け倉建てむ尿遠くまれ櫛造る刀自」である。

名古屋市千種区東山元町 東山動植物園万葉の散歩道万葉歌碑(プレート)<忌部首>
 20210216撮影



 

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山動植物園万葉の散歩道にある。

 

●歌をみていこう

 

 題詞は、「忌部首詠數種物歌一首 名忘失也」<忌部首(いむべのおびと)、数種の物を詠む歌一首 名は、忘失(まうしつ)せり>である。

 

◆枳 棘原苅除曽氣 倉将立 尿遠麻礼 櫛造刀自

    (忌部黒麻呂 巻十六 三八三二)

 

≪書き下し≫からたちの茨(うばら)刈り除(そ)け倉(くら)建てむ屎遠くまれ櫛(くし)造る刀自(とじ)

 

(訳)枳(からたち)の痛い茨(いばら)、そいつをきれいに刈り取って米倉を建てようと思う。屎は遠くでやってくれよ。櫛作りのおばさんよ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)屎遠くまれ:屎は遠くで排泄せよ。(伊藤脚注)

(注)まる【放る】他動詞:(大小便を)する。(学研)

 

 物名歌であるが、思わず笑ってしまう歌である。

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 この歌ならびに万葉時代のトイレについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1227)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

―その2247―

●歌は、「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも」である。

名古屋市千種区東山元町 東山動植物園万葉の散歩道万葉歌碑(プレート)<柿本人麻呂> 20210216撮影

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山動植物園万葉の散歩道にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂歌四首」<柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)が歌四首>である。

 

◆三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨

       (柿本人麻呂 巻四 四九六)

 

≪書き下し≫み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも

 

(訳)み熊野(くまの)の浦べの浜木綿(はまゆう)の葉が幾重にも重なっているように、心にはあなたのことを幾重にも思っているけれど、じかには逢うことができません。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)み熊野の浦:紀伊半島南部一帯。(伊藤脚注)「み」は美称。

(注)はまゆふ【浜木綿】名詞:浜辺に生える草の名。はまおもとの別名。歌では、葉が幾重にも重なることから「百重(ももへ)」「幾重(いくかさ)ね」などを導く序詞(じよことば)を構成し、また、幾重もの葉が茎を包み隠していることから、幾重にも隔てるもののたとえともされる。よく、熊野(くまの)の景物として詠み込まれる。(学研)

(注)上三句は「心は思へど」の譬喩。(伊藤脚注)

 

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 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1187)」で他の三首とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 



 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「浜松公園緑地協会HP」

★「庭木図鑑植木ペディアHP」