●歌は、「意宇の海の川原の千鳥汝が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに」である。
●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園人麻呂広場(5)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「出雲守門部王思京歌一首 後賜大原真人氏也」<出雲守(いづものかみ)門部王(かどへのおほきみ)、京を思(しの)ふ歌一首 後に大原真人の氏を賜はる>である。
◆飫海乃 河原之乳鳥 汝鳴者 吾佐保河乃 所念國
(門部王 巻三 三七一)
≪書き下し≫意宇(おう)の海の川原(かはら)の千鳥汝(な)が鳴けば我(わ)が佐保川の思ほゆらくに)
(訳)意宇(おう)の海まで続く川原の千鳥よ、お前が鳴くと、わが故郷の佐保川がしきりに思いだされる。(同上)
(注)おう【意宇・淤宇・飫宇】:島根県北東部にあった郡。ここに国府が置かれた。
(注)意宇(おう)の海:現在の島根県の中海か。
門部王(かどへのおほきみ)は、奈良時代の歌人で、風流侍従とよばれ、「万葉集」には歌が五首収録されている。天平十一年(739年)兄の高安王とともに大原真人の氏姓をあたえられる。長皇子の孫にあたるか。
(注)風流侍従:特別な職階で、学者等ではないが文化的貢献を任としていたと思われる。
他の四首をみてみよう。
題詞は、「門部王(かどべのおほきみ)詠東市之樹作歌一首 後賜姓大原真人(おほはらのまひと)氏也」<門部王(かどべのおほきみ)、東(ひむがし)の市(いち)の樹(き)をめて作る歌一首 後に姓大原真人(おほはらのまひと)の氏を賜はる>である。
◆東 市之殖木乃 木足左右 不相久美 宇倍戀尓家利
(門部王 巻三 三一〇)
≪書き下し≫東(ひみかし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢(あ)はず久しみうべ恋ひにけり
(訳)東の市の並木の枝がこんなに垂れ下がるようになるまで、あなたに久しく逢っていないものだから、こんなに恋しくなるのも当然だ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より
(注)こだる【木垂る】自動詞:木が茂って枝が垂れ下がる。 ⇒参考 一説に、「木足る」で、枝葉が十分に茂る意とする。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うべ【宜・諾】副詞:なるほど。もっともなことに。▽肯定の意を表す。 ※中古以降「むべ」とも表記する。(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その23改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)
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題詞は、「門部王在難波見漁父燭光作歌一首 後賜姓大原真人氏也」<門部王(かどへのおほきみ)、難波(なには)に在(あ)りて、海人(あま)の燭光(ともしび)を見て作る歌一首 後に姓大原真人氏の氏を賜はる>である。
◆見渡者 明石之浦尓 焼火乃 保尓曽出流 妹尓戀久
(門部王 巻三 三二六)
≪書き下し≫見わたせば明石(あかし)の浦に燭(とも)す火(ひ)の穂(ほ)にぞ出でぬる妹(いも)に恋ふらく
(訳)遠く見渡すと、明石の浦に海人(あま)の燭(とも)す火が見える、このちらつく漁火(いさりび)のようにおもてに出てしまった。あの人に恋い焦がれる思いが。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)ほにいづ【穂に出づ】分類連語:①穂が出る。②表に現れ出る。人目につくようになる。▽多く①の意にかけて用いる。 ※なりたち名詞「ほ」+格助詞「に」+動詞「いづ」(学研)
(注)上三句は実景の序。「穂に出づ」を起こす。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その636)」で紹介している。」
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題詞は、「門部王戀歌一首」<門部王が恋の歌一首>である。
◆飫宇能海之 塩干乃鹵之 片念尓 思哉将去 道之永手呼
(門部王 巻四 五三六)
≪書き下し≫意宇(おう)の海の潮干の潟(かた)の片思(かたもひ)に思ひや行かむ道の長手(ながて)を
(訳)意宇の海の潮干の干潟ではないが、片思いにあの子のことを思いつめながら辿(たど)ることになるのか。長い長いこの道のりを。(同上)
(注)上二句は序。「片思」を起こす。
(注)ながて【長手】名詞:「ながぢ」に同じ。(学研)
(注の注)ながぢ【長道】名詞:長い道のり。遠路。長手(ながて)。「ながち」とも。(学研)
左注は、「右門部王任出雲守時娶部内娘子也 未有幾時 既絶徃来 累月之後更起愛心 仍作此歌贈致娘子」<右は、門部王(かどへのおほきみ)、任出雲守(いづものかみ)に任(ま)けらゆ時に、部内の娘子(をとめ)娶(めと)る。いまだ幾時(いくだ)もあらねば、すでに徃来を絶つ。月を累(かさ)ねて後に、さらに愛(うつく)しぶ心を起こす。よりて、この歌を作りて娘子に贈り致す。>である。
(注)幾時(いくだ)もあらねば:どれほどの時間もたたないのに。
題詞は、「九年丁丑春正月橘少卿并諸大夫等集弾正尹門部王家宴歌二首」<九年丁丑(ひのとうし)の春の正月に、橘少卿、幷(あは)せて諸大夫等(まへつきみたち)、弾正尹(だんじやうのかみ)門部王(かどへのおほきみ)が家に集(つど)ひて宴(うたげ)する歌二首>のうちの一首である。
◆豫 公来座武跡 知麻世婆 門尓屋戸尓毛 珠敷益乎
(門部王 巻六 一〇一三)
≪書き下し≫あらかじめ君来まさむと知らませば門(かど)にやどにも玉敷かましを
(訳)前もってあなた方がおいで下さるとわかっていたなら、門にも庭にも玉を敷きつめておくのだったのに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首主人門部王 後賜姓大原真人氏也」<右一の首は、主人(あろじ)門部王 後には姓大原真人の氏を賜はる>である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」