万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その625,626)―高砂市曽根 曽根天満宮―万葉集 巻九 一七七二、巻十二 三一九八

―その625―

●歌は、「後れ居て我れはや恋ひなむ印南野の秋萩見つつ去なむ子ゆゑに」である。

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高砂市曽根 曽根天満宮万葉歌碑(阿倍大夫)<写真中央>


 

●歌碑は、高砂市曽根 曽根天満宮にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆於久礼居而 吾者哉将戀 稲見野乃 秋芽子見都津 去奈武子故尓

               (阿倍大夫 巻九 一七七二)

 

≪書き下し≫後(おく)れ居て我(あ)れはや恋ひなむ印南野(いなみの)の秋萩見つつ去(い)なむ子ゆゑに             

 

(訳)あとに残されて私は恋い焦がれることになるのか。印南野の秋萩を見ながら行ってしまういとしい人ゆえに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)おくれゐる【後れ居る】自動詞:あとに残っている。取り残される。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌の題詞は、「大神大夫任筑紫國時阿倍大夫作歌一首」<大神大夫(おほみわのまへつきみ)、筑紫(つくし)の国に任(ま)けらゆる時に、阿倍大夫(あへのまへつきみ)が作る歌一首>である。

(注)大神大夫:三輪朝臣高市麻呂

(注)まく【任く】他動詞①任命する。任命して派遣する。遣わす。②命令によって退出させる。しりぞける。(学研) ここでは①の意

 

 「三輪朝臣高市麻呂」の名前は、巻一 四四歌の左注に出てくる。

 まず、四四歌をみておこう。

 

◆吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞

             (石上朝臣麻呂 巻一 四四)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)をいざ見(み)の山を高みかも大和(やまと)の見えぬ国遠みかも

 

(訳)我がいとしき娘(こ)をいざ見ようという、いざ見の山が高いからかなあ、故郷大和が見えない。それとも故郷遠く離れているせいかなあ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いざ見の山:伊勢・大和国境の高見山か。

 

題詞は、「石上大臣従駕作歌」<石上大臣(いそのかみのおほまへつきみ)、従駕(おほみとも)にして作る歌>である。

 

この歌の左注に「・・・於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌日・・・」<・・・ここに中納言三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみたけちまろ)、その冠位(かぶふり)を脱(ぬ)きて(みかど)に捧(ささ)げ、重ねて諌(いさ)めまつりて日(まを)さく・・・>とある。

 

 このエピソードに関しては、奈良県HP「はじめての万葉集 vol.60」に詳細に書かれているので引用させていただく。

 「この歌は持統天皇六年の伊勢行幸の際に、行幸に従駕した石上麻呂が詠んだ歌です。

 『いざ見の山』とは、東吉野村三重県松阪市との境にある高見山かといわれます。『いざ』は相手を誘う語で、『見る』には男女が会うという意味もありました。高見山の標高は約一二五〇メートルあり、冬には樹氷が見られることで知られます。東西方向から見ると尖った山頂が見えることから、伊勢側から見て大和国が遮られているように感じたものと考えられます。

 『万葉集』には、この行幸の際のエピソードが注に詳しく記されています。中納言であった三輪朝臣高市麻呂(みわのあそんたけちまろ)が冠位を脱いで天皇に捧げ、農繁期行幸は民を苦しめるとして諫(いさ)めたが、天皇はこれを聞き入れず伊勢へ行幸した、というものです。

 『日本書紀』によれば、確かに三月三日に高市麻呂が持統天皇の伊勢行幸を諫めたこと、それを押し切って六日に伊勢に行幸したことなどが記されています。冠を脱いで天皇に捧げるとは職を辞する覚悟のほどを示しており、高市麻呂はこの後しばらく官職を解かれたといわれています。

 ただ、持統天皇行幸を強行しただけでなく、行幸の通過地となった地域や随行した人々の税を免除し、大赦を行うなどもしたと『日本書紀』にはあります。伊勢は壬申(じんしん)の乱において大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)を勝利に導いた神の坐す地であり、高市麻呂はその乱における功臣でした。だからこそ諫言(かんげん)を呈することができたのでしょうが、一方で天武天皇の遺志を継いだ持統天皇には、その諫言を退けても行幸しなければならない事情があったのかもしれません。

 石上麻呂大友皇子側の忠臣として知られ、天武天皇持統天皇にも重用されました。高市麻呂の話は、石上麻呂には直接関わらないのに詳細な注を付けるほど有名だったようで、『懐風藻(かいふうそう)』や『日本霊異記(にほんりょういき)』にもみえます。」

 

 一七七二歌の紹介から脱線してしまったが、本線にもどそう。

この歌は、一七七一歌《大神大夫、長門守に任(ま)けらゆる時に、三輪(みわ)の川辺(かわへ)に集(つど)ひて宴する歌二首の一首》を恋人を送る男の立場の歌に仕立て直して、送別の意をたくしたものと思われる。

一七七一歌は、「後(おく)れ居て我(あ)れはや恋ひなむ春霞(はるかすみ)たなびく山を君が越え去(い)なば」である。

 

 

―その626―

●歌は、「明日よりはいなむの川の出でて去なば留まれる我れは恋ひつつやあらむ」である。

 

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高砂市曽根 曽根天満宮万葉歌碑(作者未詳)<写真左端>

●歌碑は、高砂市曽根 曽根天満宮にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆明日従者 将行乃河之 出去者 留吾者 戀乍也将有

              (作者未詳    巻十二 三一九八)

 

≪書き下し≫明日(あす)よりはいなむの川の出(い)でて去(い)なば留(と)まれる我(あ)れは恋ひつつやあらむ

 

(訳)明日からは去なむという名の川のように、旅に出て去なれてしまったら、あとに残される私は、どんなに恋い焦がれなければならないことか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)    

(注)いなむの川:兵庫県印南野を流れる加古川か。

(注)上二句「明日従者 将行乃河之」が序。「出去者」を起こす。

 

播磨国風土記には、景行天皇が印南別譲を求婚した際、一旦別譲が天皇を拒否し、ナビツマ島に隠れたという伝説が載っているという。

この三一九八歌は、この伝説を踏まえて詠われた歌と考えられている。「明日よりは いなむの川」と「明石」と「否び妻」とを連想していると考えられる

 

巻四 五〇九歌は、丹比真人笠麻呂(たぢひのまひとかさまろ)が筑紫の国に下るときに作った長歌であるが、一節に、「・・・い行き廻(もとほ)り 稲日都麻(いなびつま) 浦みを過ぎて ・・・」<・・・はるばる稲日都麻(いなびつま)の浦のあたりも通り過ぎて・・・>とある。

そのような伝説を思い出し、かつ大海で心許ない心境のまま「いなびつま」を見て、そこで「いなびつま」を「うらみ(浦廻→恨み)」に続け、「・・・などかも妹に 告(の)らず来にけむ<どうしてまたあの子に、わけも告げずに別れて来てしまったのだろうか>」と、妹に別れを告げてこなかったことを後悔して詠っているのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「はじめての万葉集 vol.60」 (奈良県HP)

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」