万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2167)―愛媛県―

愛媛県西条市下鳥山櫟津岡 飯積神社万葉歌碑(巻十六 三八二四)■

愛媛県西条市下鳥山櫟津岡 飯積神社万葉歌碑(長忌寸意吉麻呂) 20220922撮影

●歌をみていこう。

 

 標題は、「長忌寸意吉麻呂歌八首」<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が歌八首>であり、三八二四~三八三一歌の歌群となっている。

 

◆刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋従来許武 狐尓安牟佐武

        (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二四)

 

≪書き下し≫さし鍋(なべ)に湯沸(わ)かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来(こ)む狐(きつね)に浴(あ)むさむ

 

(訳)さし鍋の中に湯を沸かせよ、ご一同。櫟津(いちいつ)の檜橋(ひばし)を渡って、コムコムとやって来る狐に浴びせてやるのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)さしなべ【差し鍋】名詞:弦(つる)のついた、注(つ)ぎ口のある鍋。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)櫟津:天理市櫟本付近の川津か。雑器「櫃」を隠す。(伊藤脚注)

(注)檜橋:檜製の河橋。(伊藤脚注)

(注)来む:狐声コムを隠す。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首傳云 一時衆集宴飲也 於時夜漏三更 所聞狐聲 尓乃衆諸誘奥麻呂曰關此饌具雜器狐聲河橋等物 但作謌者 即應聲作此謌也」<右の一首は、伝へて云はく、ある時、衆(もろもろ)集(つど)ひて宴飲す。時に、夜漏三更(やらうさんかう)にして、狐の声聞こゆ。すなはち、衆諸(もろひと)意吉麻呂(おきまろ)を誘(いざな)ひて曰はく、この饌具、雜器、(ざうき)狐聲(こせい)河橋(かけう)等の物の関(か)けて、ただに歌を作れ といへれば、すなはち、声に応へてこの歌を作るといふ>

(注)やろう【夜漏】:夜の時刻をはかる水時計。転じて、夜の時刻。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)さんかう【三更】名詞:時刻の名。「五更(ごかう)」の第三。午後十二時。また、それを中心とする二時間。「丙夜(へいや)」とも。(学研)

 

 

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感想(1件)

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1928)」で紹介している。

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 この歌の歌碑は、奈良県天理市櫟本町和爾下神社にもある。

天理市の和爾下神社か西条市の飯積神社か。

「櫟津」がポイントになる。

 「和爾下神社」は、奈良県天理市櫟本町にある。近くには「高瀬川」が流れている。「櫟津」は櫟の津という意味であろう。

一方、「飯積神社(いいづみじんじゃ)」は、愛媛県西条市下島山にあり、古くは櫟津神社(いちいづじんじゃ)との名称で呼ばれていた。

歌の「櫟津」は、「櫃」を懸けた地名的なもので、宴席にいた人たちや、いわゆる読者層に幅広く知られているが故に「承ける」と思われる。

いずれにしろ「櫟津」に因んだということから、西条市の飯積神社に歌碑が立てられたと考えられる。

 

 天理市の「和爾下神社」の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その53改)」で紹介している。

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松山市御幸町 護国神社・万葉苑万葉歌碑(巻一 八)■

松山市御幸町 護国神社・万葉苑万葉歌碑(額田王) 20220922撮影

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「額田王歌」<額田王が歌>である。

 

◆熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

       (額田王 巻一 八)

 

≪書き下し≫熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗(の)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな

 

(訳)熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出(で)、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕(こ)ぎ出そうぞ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)熟田津:松山市和気町・堀江町付近。(伊藤脚注)

(注)かなふ【適ふ・叶ふ】自動詞:適合する。ぴったり合う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰(い)はく、「飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑(うちのとうし)の、九年丁酉(ひのととり)の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、天皇・大后、(おほきさき)、伊予(いよ)の湯の宮に 幸(いでま)す。後(のち)の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉(かのととり)の春の正月丁酉(ひのととり)の朔(つきたち)の壬寅(みづのえとら)に、御船西つかたに征(ゆ)き、始めて海路(うみぢ)に就(つ)く。 庚戌(かのえいぬ)に、御船伊予の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。 天皇、昔日(むかし)のなほし存(のこ)れる物を御覧(みそこなは)して、その時にたちまち感愛の情(こころ)を起したまふ。この故(ゆゑ)によりて歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ」といふ。すなはち、この歌は天皇の御製なり。ただし、額田王が歌は別に四首あり>である。

(注)飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇:三四代舒明天皇

(注)壬午;舒明九年(637年)十二月十四日。

(注)壬寅:斉明七年(661年)正月六日。

(注)庚戌:正月十四日

(注)泊(は)つ:斉明天皇疲労により道後温泉で静養したらしい。三月二十五日近くまでここにいた。(伊藤脚注)

(注)昔日:亡き夫君舒明と来た昔日。(伊藤脚注)

(注)歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ:類聚歌林には、斉明天皇の哀傷歌を載せ、滞在中の歌、さらに船出宣言の歌を載せていたらしい。(伊藤脚注)

(注)天皇の御製:額田王が「熟田津(にきたつ)に・・・」の歌を代作したのでこの伝えがある。(伊藤脚注)

(注)別に四首あり;この四首は今に伝わらず不明となっている。(伊藤脚注)

 

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感想(1件)

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1835)」で紹介している。

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「愛媛万葉苑」は園内の説明案内板によると、昭和二八年(1953年)に護国神社境内に作られた「郷土植物園」がその始まりで、その後、園内に額田王の「熟田津の歌」の碑が立てられ、それを機に万葉植物を蒐集栽培し、昭和四三年(1968年)に「愛媛万葉苑」が開園されたとある。



      

愛媛万葉苑 万葉歌碑(プレート)一部  20220922撮影

 ここでは割愛しますが、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1836~1927)」で撮影したすべての歌碑(プレート)を歌とともに紹介している。

 

 

 「熟田津」は、松山市和気町・堀江町付近と言われているので、この八歌の歌碑は、松山市内に、古三津の久枝神社、梅田町の松山梅田町郵便局にも立てられている。

 

松山市梅田町 松山梅田町郵便局万葉歌碑(額田王) 20220922撮影



 

この歌は、上述の護国神社・万葉苑万葉歌碑と同じであるので省略させていただきます。

 

 

 

 

松山市古三津 久枝神社万葉歌碑(額田王) 20220922撮影

 

 この歌は、上述の護国神社・万葉苑万葉歌碑と同じであるので省略させていただきます。

 

 松山梅田町郵便局万葉歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1832)」で、久枝神社の歌碑については、同「同(その1833)」で紹介している。

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松山市姫原 軽之神社・比翼塚歌碑(軽太郎女:巻二 九〇)■

松山市姫原 軽之神社・比翼塚歌碑(木梨軽太子・軽太郎女) 20220922撮影

歌を見てみよう。

 

題詞は、「古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時謌曰」<古事記に曰はく 軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。この故(ゆゑ)にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕(しの)ひ堪(あ)へずして追ひ徃(ゆ)く時に、歌ひて曰はく>である。

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  此云山多豆者是今造木者也

         (衣通王 巻二 九〇)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ ここに山たづといふは、今の造木をいふ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。にわとこの神迎えではないが、お迎えに行こう。このままお待ちするにはとても堪えられない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞:「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(学研)

(注)みやつこぎ【造木】: ニワトコの古名。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)軽太子:十九代允恭天皇の子、木梨軽太子。(伊藤脚注)

(注)軽太郎女:軽太子の同母妹。当時、同母兄妹の結婚は固く禁じられていた。(伊藤脚注)

(注)たはく【戯く】自動詞①ふしだらな行いをする。出典古事記 「軽大郎女(かるのおほいらつめ)にたはけて」②ふざける。(学研)

(注)伊予の湯:今の道後温泉

(注)衣通王:軽太郎女の別名。身の光が衣を通して現れたという。(伊藤脚注)                         

 

木梨軽太子の歌は、『天飛ぶ鳥も使ぞ鶴が音の聞えむ時は我が名問はさね』(空を飛ぶ鳥は使いである。したがって鶴が鳴くときは私のことを尋ねてくだしね。)

(注)さね 分類連語:…なさってほしい。 ※上代語。 ⇒なりたち:尊敬の助動詞「す」の未然形+終助詞「ね」(学研)

 

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 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1834)」で紹介している。

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 比翼塚と歌碑 20220922撮影

 

 

 

 

愛媛県八幡浜市 八幡神社万葉歌碑(巻十 二一七八)■

愛媛県八幡浜市 八幡神社万葉歌碑(柿本人麻呂歌集) 20220921撮影

●歌をみていこう。

 

妻隠 矢野神山 露霜尓 々寶比始 散巻惜

       (柿本人麻呂歌集 巻十 二一七八)

 

≪書き下し≫妻ごもる矢野(やの)の神山(かみやま)露霜(つゆしも)ににほひそめたり散らまく惜(を)しも

 

(訳)妻と隠(こも)る屋(や)というではないか、矢野の神山は、冷え冷えとした露が降りて美しく色づきはじめた。このもみじの散るのが、今から惜しまれてならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)つまごもる【夫籠もる・妻籠もる】( 枕詞 ):①物忌みなどのため「つま」のこもる屋の意で、「屋上(やかみ)の山」「矢野の神山」にかかる。②地名「小佐保(おさほ)」にかかる。かかり方未詳。 (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)矢野:所在未詳。諸所にみえる地名。(伊藤脚注)

(注)にほふ【匂ふ】自動詞:美しく染まる。(草木などの色に)染まる。(学研)

 

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 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1831)」で紹介している。

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八幡神社の住所は、愛媛県八幡浜市矢野町 神山510になっている。「矢野」の地名に基づき歌碑が建てられたのであろう。もっとも。同神社の「由緒」には、「當神社の社叢境内一帯は、古来歌枕『矢野神山』として世に知られ、最古の歌集萬葉集に、柿本人麻呂の歌(巻十・第二一七八番)を始め、歴代の勅撰和歌集、有名歌集に数多くの名歌を載られた名山旧跡であります。」と書かれている。

 

 この歌については兵庫県相生市矢野町森の磐座神社の万葉歌碑とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その684)」で紹介している。

 

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 愛媛県西予市城川町には、三滝渓谷自然公園があり、「万葉の道」には42基の歌碑が立てられている。



三滝渓谷自然公園「万葉の道」万葉歌碑 20220921撮影

 

 ここでは割愛しますが、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1790~1830)」ですべての歌碑を歌とともに紹介している。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉