●歌は、「夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋はくるしきものぞ」である。
●歌をみていこう。
◆夏野之 繁見丹開有 姫由理乃 不所知戀者 苦物曽
(大伴坂上郎女 巻八 一五〇〇)
≪書き下し≫夏の野の茂(しげ)みに咲ける姫(ひめ)百合(ゆり)の知らえぬ恋は苦しきものぞ
(訳)夏の野の草むらにひっそりと咲いている姫百合、それが人に気づかれないように、あの人に知ってもらえない恋は、苦しいものです。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「大伴坂上郎女歌一首」<大伴坂上郎女が歌一首>である。
「夏の野の茂(しげ)みに咲ける姫(ひめ)百合(ゆり)の」の美しい上三句の序があって初めて、作者大伴坂上郎女の相手に知られずに悩む一人の女性としての可憐な姿を浮かび上がらせるのである。
姫百合は近畿地方以西に分布し五~七月に濃い赤色の花を咲かせる。「知らえぬ恋」とは、相手に知ってもらえない恋の苦しさを訴えるもので、夏の野の茂みの中で、人には知られないものの、ひとり美しい赤色の花を咲かせている姫百合に思いを重ねた歌である。
ヒメユリを詠んだ歌は、この一首のみである。
大伴坂上郎女は、万葉第三期から第四期にかけての大歌人である。万葉集には、長歌六首、短歌七十七首、旋頭歌一首、合計八十四首が収録されている。大伴家持に対しては、叔母として、さらに娘の坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)を嫁がせてからは、慈愛はますます深くなり、家持への歌の開眼から発展に与えた影響は極めて大きいといえる。
この巻八部立て「夏相聞」にも、上記の歌の他、二首が収録されている。
こちらも見ておこう。
◆無暇 不来之君尓 霍公鳥 吾如此戀常 徃而告社
(大伴坂上郎女 巻八 一四九八)
≪書き下し≫暇(いとま)なみ来(き)まさぬ君にほととぎす我(あ)れかく恋ふと行きて告(つ)げこそ
(訳)暇がないからといってお見えにならないあの方に、時鳥よ、私がこんなにも恋いこがれていると、行ってつたえておくれ。(同上)
(注)こそ 終助詞:《接続》動詞の連用形に付く。〔他に対する願望〕…てほしい。…てくれ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
◆五月之 花橘乎 為君 珠尓社貫 零巻惜美
(大伴坂上郎女 巻八 一五〇二)
≪書き下し≫五月(さつき)の花橘(はなたちばな)を君がため玉にこそ貫(ぬ)け散らまく惜(お)しみ
(訳)五月の橘の花、その花を、あなたのために糸を通して薬玉にこしらえました。散ってしまうのが惜しいので。(同上)
万葉集は、素朴な歌が多いといわれるが、大伴坂上郎女の歌の繊細さは、平安時代に繋がるおおきな要素をひめていると言えるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫)