●歌は、「はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに」である。
●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(24)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「太上天皇 御製歌一首」<太上天皇(おほきすめらみこと)の御製歌一首>である。
(注)だいじゃうてんわう【太上天皇】名詞:譲位後の天皇の尊敬語。持統天皇が孫の文武(もんむ)天皇に譲位して、太上天皇と称したのに始まる。太上皇(だいじようこう)。上皇。「だじゃうてんわう」「おほきすめらみこと」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ここは、四十四代元正天皇
◆波太須珠寸 尾花逆葺 黒木用 造有室者 迄萬代
(元正天皇 巻八 一六三七)
≪書き下し≫はだすすき尾花(をばな)逆葺(さかふ)き黒木もち造れる室(むろ)は万代(よろづよ)までに
(訳)はだすすきや尾花を逆さまに葺いて、黒木を用いて造った新室(にいむろ)、この新室はいついつまでも栄えることであろう。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より
(注)はだすすき【はだ薄】名詞:語義未詳。「はたすすき」の変化した語とも、「膚薄(はだすすき)」で、穂の出る前の皮をかぶった状態のすすきともいう。(学研)
(注)をばな【尾花】名詞:「秋の七草」の一つ。すすきの花穂。[季語] 秋。 ※形が獣の尾に似ていることからいう。(学研)
(注)くろき【黒木】名詞:皮付きの丸太。[反対語] 赤木(あかぎ)。(学研)
続いて聖武天皇の歌も収録されている。これもみてみよう。
◆青丹吉 奈良乃山有 黒木用 造有室者 雖居座不飽可聞
(聖武天皇 巻八 一六三八)
≪書き下し≫あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(むろ)は座(ま)せど飽(あ)かぬかも
(訳)奈良の山にある黒木を用いて造った新室。この新室はいつまでいても飽きることがない。(同上)
(注)ます【坐す・座す】自動詞:①いらっしゃる。おいでである。おありである。▽「あり」の尊敬語。②いらっしゃる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)
(注の注)天皇が自身に敬語を用いたもの。自敬表現という。
左注は、「右聞之御左大臣長屋王佐保宅肆宴 御製」<右は、聞くに「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)が佐保(さほ)の宅(いへ)に御在(いま)して肆宴(とよのあかり)したまふときの御製」と>である。
(注)肆宴:天皇の饗宴。ここでは室寿ぎ。
(注の注)むろほぎ【室寿ぎ】:《古くは「むろほき」》新室 (にいむろ) の完成を言葉でほめ祝うこと。(goo辞書) ※室寿ぎは冬に行われるのが習い。
元正天皇、聖武天皇の歌は、それぞれ巻八「冬雑歌」の二番目、三番目に収録されている。冒頭歌は舎人娘子の歌である。
収録の順番にふと疑問に思い調べてみたのである。
この歌の収録されている、巻八は、作者が示され、年次も記すこともある。四季の部立(雑歌・相聞)で構成されている。
それぞれの先頭歌の作者名等を「万葉集目録」からみてみよう。次のようになっている。
【春雑歌】志貴皇子の懽の御歌一首
【夏雑歌】藤原夫人が歌一首
【夏相聞】大伴坂上郎女が歌一首
【秋雑歌】岡本天皇御製歌一首
【冬雑歌】舎人娘子が雪の歌一首
【冬相聞】三国真人ゝ足が一首
春相聞、夏相聞、冬相聞を除いて、それぞれ春雑歌五首、夏雑歌五首、秋雑歌七首、秋相聞三首、冬雑歌一首と古歌が収録されている。他は聖武天皇時代の歌となっている。
舎人娘子の歌は、「古歌」であるので、冒頭歌として収録されているのである。しかも冬雑歌の古歌は一首であるから、他に該当するものは無かったのであろう。
冒頭歌の舎人娘子の歌をみてみよう。
題詞は、「舎人娘子雪歌一首」<舎人娘子(とねりのをとめ)が雪の歌一首>である。
◆大口能 真神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有國
(舎人娘子 巻八 一六三六)
≪書き下し≫大口(おほくち)の真神(まかみ)の原(はら)に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
(訳)真神の原に降る雪よ、そんなにひどく降らないでおくれ、このあたりに我が家があるわけでもないのに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)おほくちの【大口の】分類枕詞:「真神(まかみ)」と呼ばれた狼(おおかみ)が大きな口であるところから、地名「真神の原」にかかる。(学研)
この歌ならびの他の二首は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その159改)」で紹介している。
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三首のうちの一一八歌の題詞は、「舎人娘子奉和歌一首」<舎人娘子、和(こた)へ奉(まつ)る歌一首>である。
どの歌に和えたかというと、題詞「舎人皇子の御歌一首」なのである。こちらもみてみよう。
◆大夫哉 片戀将為跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里
(舎人皇子 巻二 一一七)
≪書き下し≫ますらをや片恋(かたこひ)せむと嘆けども醜(しこ)のますらをなほ恋ひにけり
(訳)ますらおたる者、こんな片恋なんかするものかと、しきりにわが心に言いきかせて抑えに抑えるのだが、おれはろくでなし、とんまなますらおだ、それでもやっぱり恋い焦がれてしまう。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌に関して、「はじめての万葉集 vol,73」(奈良県HP)に詳しく書かれているので、下記のとおり、そのまま引用させていただきます。
「舎人皇子(親王)は天武天皇の子で、『日本書紀』の最終的な編纂責任者と目されている人物です。
今から一三〇〇年前の養老四(七二〇)年五月二十一日、舎人親王が『日本紀』を修んだという記述が『続日本紀』(しょくにほんぎ)にあり、これが『日本書紀』が完成し奏上されたことを意味しているとされています。
さて、今回ご紹介する歌は、その舎人皇子が、立派な男子たる『ますらを』が片恋に悩んだりするものかと嘆きながら、それでもやはり『醜のますらを』は恋に苦しんでしまう、と歌ったものです。この歌には、舎人娘子(とねりをとめ)が応じた歌もあります(巻二・一一八)。
嘆きつつ 大夫(ますらをのこ)の 恋ふれこそ わが髪結(かみゆひ)の 漬ぢてぬれけれ
(思わず嘆きながら『ますらを』たるものが恋してくださるからこそ、私の髪の結い糸も濡れて解けるのですね。)
ここでは、立派な『ますらを』が恋してくれるからこそ、私の髪も濡れほどけてしまうのだと、皇子の少しおどけた嘆きを肯定的に捉え直し、機知に富んだ返しをしています。髪が濡れほどけることについては、恋されると髪がほどけるという俗信があったとも、相手の恋の嘆きが霧となって髪を濡らしほどけさせるという考えがあったともいわれます。
皇子と娘子が詠んだ『ますらを』、つまり古代の立派な男性像については、『日本書紀』にも見えます。神武天皇の兄である五瀬命(いつせのみこと)は、傷を負って亡くなる前に、『大丈夫』(ますらを)であるのに傷の報復もせずに死んでしまうとは、と発言しています。男とはこうあるものだ、といった男性像があったようです。
自らを『醜のますらを』とおどけた皇子は、この歌を詠んだ時にはまだ若かったと思われますが、後に『日本書紀』編纂を統括するという大きな業績を成し遂げた『ますらを』となるのです。(本文 万葉文化館 吉原啓)」
万葉集とは、一つの鍵を開けると、複数個の鍵穴が見つかる。ひとつづつ鍵を開けていこう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」