万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1914~1916)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑(79,80,81)―万葉集 巻十一 二七五九、巻七 一三三〇、巻九 一七三〇

―その1914―

●歌は、「我がやどの穂蓼古幹摘み生し実になるまでに君をし待たむ」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(79)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(79)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾屋戸之 穂蓼古幹 棌生之 實成左右二 君乎志将待

       (作者未詳 巻十一 二七五九)

 

≪書き下し≫我(わ)がやどの穂蓼(ほたで)古幹(ふるから)摘(つ)み生(おほ)し実(み)になるまでに君をし待たむ

 

(訳)我が家の庭の穂蓼の古い茎、その実を摘んで蒔(ま)いて育て、やがてまた実を結ぶようになるまでも、私はずっとあなたを待ち続けています。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)ほたで【穂蓼】:蓼の穂が出たもの。蓼の花穂(かすい)。蓼の花。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)ふるから【古幹】名詞:古い茎。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)古幹摘み生し実になるまでに:古い茎の実を採りそれを蒔いて育てて。(伊藤脚注)

(注)実になる:結婚の成就の意もこめる。(伊藤脚注)

(注)おほす【生ほす】他動詞:①生育させる。伸ばす。生やす。②養育する。(学研)

 

 万葉集には「蓼」を詠んだ歌が三首収録されている。この歌ならびに他の二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その330)」で紹介している。

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―その1915―

●歌は、「南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(80左)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(80)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆南淵之 細川山 立檀 弓束纒及 人二不所知

       (作者未詳 巻七 一三三〇)

 

≪書き下し≫南淵(みなぶち)の細川山(ほそかはやま)に立つ檀(まゆみ)弓束(ゆづか)巻くまで人に知らえじ

 

(訳)南淵の細川山に立っている檀(まゆみ)の木よ、お前を弓に仕上げて弓束を巻くまで、人に知られたくないものだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)細川山:奈良県明日香村稲渕の細川に臨む山。(伊藤脚注)

(注)ゆつか【弓柄・弓束】名詞:矢を射るとき、左手で握る弓の中ほどより少し下の部分。また、そこに巻く皮や布など。「ゆづか」とも。(学研)

 

 奈良文化財研究所 「なぶんけんブログ 」に マユミ(真弓)について次の様に書かれている。

「枝の下方に垂れ下がる実は、秋から冬にかけて鮮やかに赤く熟し、野鳥たちの貴重な食糧となるのです。 マユミの漢字表記は『真弓、檀弓』と書き、弓の材料として最適な材質のため、古来から武具や芸術品として珍重されてきた歴史があります。・・・『万葉集』ではマユミを詠んだ歌は十二首登場します。」

 マユミ(檀弓)の花 (なぶんけんブログより引用させていただきました。)

 

 

 この歌ならびに「弓束(ゆづか)」を詠んだ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1250)」で紹介している・

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―その1916―

●歌は、「芝付の御宇良崎なるねつこ草相見ずあらずば我れ恋ひめやも」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(81右)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(81)にある。

 ※但し、歌番と作者名は、「巻九 一七三〇 藤原宇合」となっている。

 

歌をみていこう。(三五〇八歌)

 

◆芝付乃 御宇良佐伎奈流 根都古具佐 安比見受安良婆 安礼古非米夜母

       (作者未詳 巻十四 三五〇八)

 

≪書き下し≫芝付(しばつき)の御宇良崎(みうらさき)なるねつこ草(ぐさ)相見(あひみ)ずあらずば我(あ)れ恋ひめやも

 

(訳)芝付(しばつき)の御宇良崎(みうらさき)のねつこ草、あの一緒に寝た子とめぐり会いさえしなかったら、俺はこんなにも恋い焦がれることはなかったはずだ(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)。

(注)ねつこぐさ【ねつこ草】〘名〙: オキナグサ、また、シバクサとされるが未詳。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典精選版 )

(注の注)ねつこ草は女性の譬え。「寝つ子」を懸ける。(伊藤脚注)

(注)あひみる【相見る・逢ひ見る】自動詞:①対面する。②契りを結ぶ。(学研)

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1146)で紹介している。

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■注■歌碑(プレート)には、三五〇八歌が書かれ、一七三〇歌と作者として「藤原宇合」が書かれているため、小生リストに「藤原宇合の一七三〇歌」として挙げたためこの歌について紹介した。(アップ時間違いに気づいたので両歌を紹介することにしました、)

 

藤原宇合の一七三〇歌をみていこう。

 

 一七二九から一七三一歌の題詞は、「宇合卿歌三首」<宇合卿(うまかひのまへつきみ)が歌三首>である。

 

◆山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武

        (藤原宇合 巻九 一七三〇)

 

≪書き下し≫山科(やましな)の石田(いはた)の小野(をの)のははそ原見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ

 

(訳)山科の石田の小野のははその原、あの木立を見ながら、あの方は今頃独り山道を越えておられるのであろうか。(同上)

(注)石田:京都府山科区の南部(伊藤脚注)

(注)ははそ【柞】名詞:なら・くぬぎなど、ぶな科の樹木の総称。紅葉が美しい。(学研全訳)

 

 この歌ならびに他の二首については、京都市伏見区 天穂日命神社の歌碑とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その553)」で紹介している。

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 一七三一歌では「石田の社(もり)」と詠われているが、この「石田の社」と詠っている歌をみてみよう。

 

◆山代 石田社 心鈍 手向為在 妹相難

       (柿本人麻呂歌集 巻十二 二八五六)

 

≪書き下し≫山背(やましろ)の石田(いはた)の社(もり)に心おそく手向(たむ)けしたれや妹(いも)に逢ひかたき

 

(訳)山背の石田の社(やしろ)に、いい加減に幣帛(ぬさ)を手向けたとでもいうのか、そんな覚えはないのに、あの子になかなか逢うことができない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)こころおそし【心鈍し】形容詞:気がきかない。(学研)

 

 

◆空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遅乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得 山科之 石田之社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越徃 相坂山遠

       (作者未詳 巻十三 三二三六)

 

≪書き下し≫そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良山(ならやま)越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 滝(たき)つ屋の 阿後尼(あごね)の原を 千年(ちとせ)に 欠くることなく 万代(よろづよ)に あり通(かよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の すめ神(かみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我(わ)れは越え行く 逢坂山(あふさかやま)を

 

(訳)そらみつ大和の国、その大和の奈良山を越えて、山背の管木(つつき)の原、宇治の渡し場、岡屋(おかのや)の阿後尼(あごね)の原と続く道を、千年ののちまでも一日とて欠けることなく、万年にわたって通い続けたいと、山科の石田の杜の神に幣帛(ぬさ)を手向けては、私は越えて行く。逢坂山を。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)そらみつ:[枕]「大和(やまと)」にかかる。語義・かかり方未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)奈良山:奈良県北部、奈良盆地の北方、奈良市京都府木津川(きづがわ)市との境界を東西に走る低山性丘陵。平城山、那羅山などとも書き、『万葉集』など古歌によく詠まれている。古墳も多い。現在、東半の奈良市街地北側の丘陵を佐保丘陵、西半の平城(へいじょう)京跡北側の丘陵を佐紀丘陵とよぶ。古代、京都との間に東の奈良坂越え、西の歌姫越えがあり、いまは国道24号、関西本線近畿日本鉄道京都線などが通じる。奈良ドリームランド(1961年開園、2006年閉園)建設後は宅地開発が進み、都市基盤整備公団(現、都市再生機構)によって平城・相楽ニュータウンが造成された。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)管木之原(つつきのはら):今の京都府綴喜郡。(伊藤脚注)

(注)岡谷:宇治市宇治川東岸の地名。(伊藤脚注)

(注)石田の杜:「京都市伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で,和歌の名所として『万葉集』などにその名がみられます。(中略)現在は“いしだ”と言われるこの地域ですが,古代は“いわた”と呼ばれ,大和と近江を結ぶ街道が通り,道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所でした。」(レファレンス協同データベース)

(注)すめ神:その土地を支配する神。(伊藤脚注)

(注)あふさかやま【逢坂山】:大津市京都市との境にある山。標高325メートル。古来、交通の要地。下を東海道本線のトンネルが通る。関山。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その231)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「レファレンス協同データベース」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

★「なぶんけんブログ 」 奈良文化財研究所 HP