●歌は、「山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ」である。
●歌をみていこう。
◆山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武
(藤原宇合 巻九 一七三〇)
≪書き下し≫山科(やましな)の石田(いはた)の小野(をの)のははそ原見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ
(訳)山科の石田の小野のははその原、あの木立を見ながら、あの方は今頃独り山道を越えておられるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)ははそ【柞】名詞:なら・くぬぎなど、ぶな科の樹木の総称。紅葉が美しい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
一七二九から一七三一歌の題詞は、「宇合卿歌三首」<宇合卿(うまかひのまへつきみ)が歌三首>である。
他の二首もみてみよう、
◆暁之 夢所見乍 梶嶋乃 石超浪乃 敷弖志所念
(藤原宇合 巻九 一七二九)
≪書き下し≫暁(あかとき)の夢(いめ)に見えつつ梶島(かじしま)の磯越す波のしきてし思ほゆ
(訳)明け方の夢にたびたびあの子が見えて、梶島の磯を越す波の次から次へとしきるように、ただしきりに思われてならない。(同上)
(注)梶島:所在未詳
(注)第三、四句「梶嶋乃 石超浪乃」は「敷弖」を起こす。
(注)しく【頻く】自動詞:次から次へと続いて起こる。たび重なる。(学研)
◆山科乃 石田社尓 布麻越者 盖吾妹尓 直相鴨
(藤原宇合 巻九 一七三一)
≪書き下し≫山科の石田の社(もり)に幣(ぬさ)置かばけだし我妹(わぎも)に直(ただ)に逢はむかも
(訳)山科の石田の社(やしろ)に幣帛(ぬさ)を捧げたなら、ひょっとしていとしいあの人に、夢でなくじかに逢(あ)えるだろうか。(同上)
一七二九歌は、妻のことを思う歌である。
一七三〇歌は、「君」と詠い妻の立場での歌である。そして一七三一歌は、「我妹」と夫の立場で一七二九歌に応じる形で詠っている。
石田の杜(いわたのもり)については、レファレンス協同データベースに次のように記載されている。
「石田の杜は,京都市伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で,和歌の名所として『万葉集』などにその名がみられます。
・山科の石田の杜に幣(ぬさ)置かばけだし我妹に直に逢はむかも
〈『万葉集』巻九-1731〉 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
・山代の石田の杜に心おそく手向けしたれや妹に逢ひ難き
〈『万葉集』巻十二-2856〉 作者不詳
現在は“いしだ”と言われるこの地域ですが,古代は“いわた”と呼ばれ,大和と近江を結ぶ街道が通り,道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所でした。この石田の杜の所在地については諸説あったようですが,大和から近江への道すがらを歌う長歌『万葉集巻十三 三二三六』や,『“石田杜”を解説する京都の地名等に関する地誌』などから,明治10年(1877),京都府庁が現在の場所がふさわしいとし,社名も現在の天穂日命神社に改称されました。」とある。
上記にあった三二三六歌をみておこう。
◆空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遅乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得 山科之 石田之社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越徃 相坂山遠
≪書き下し≫そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良山(ならやま)越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 岡屋(をかのや)の 阿後尼(あごね)の原を 千年(ちとせ)に 欠(か)くることなく 万代(よろづよ)に あり通(がよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の すめ神(かみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我れは越え行く 逢坂山(あふさかやま)を
(訳)そらみつ大和の国、その大和の奈良山を越えて、山背の管木(つつき)の原、宇治の渡し場、岡屋(おかのや)の阿後尼(あごね)の原と続く道を、千年ののちまでも一日とて欠けることなく、万年にわたって通い続けたいと、山科の石田の杜の神に幣帛(ぬさ)を手向けては、私は越えて行く。逢坂山を。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)そらみつ 分類枕詞:国名の「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。(学研)
(注)奈良山 分類地名:今の奈良市の北方の丘陵。この山を越える奈良坂は古代から交通の要路であった。「平城山」とも書く。(学研)
(注)ちはやぶる【千早振る】分類枕詞:①荒々しい「氏(うぢ)」ということから、地名「宇治(うぢ)」にかかる。②荒々しい神ということから、「神」および「神」を含む語、「神」の名、「神社」の名などにかかる。(学研)
(注)岡屋:宇治市宇治川東岸の地名。宇治市立岡屋小学校がある。
(注)すめかみ 皇神:国土を守護する神霊。「志賀のすめ神」(7-123)、「石田の杜の すめ神に」(13-3236)、「すめ神の 領(し)きいます 新川の」(17-4000)等、山川や地名・国名に連ねて用いられる。(國學院大學デジタル・ミュージアム 万葉神事語事典)
(注)逢坂山(読み)おうさかやま:大津市と京都市との境にある山。標高325メートル。古来、交通の要地。下を東海道本線のトンネルが通る。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「レファレンス協同データベース」
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」