●歌は、「衣手の名木の川辺を春雨に我れ立ち濡ると家思ふらむか」である。
●歌碑は、宇治市伊勢田町 砂田第一公園にある。新碑と旧碑がある。
●歌をみていこう。
◆衣手乃 名木之川邊乎 春雨 吾立沾等 家念良武可
(作者未詳 巻九 一六九六)
≪書き下し≫衣手(ころもで)の名木(なき)の川辺(かはへ)を春雨(はるさめ)に我(わ)れ立ち濡(ぬ)ると家思ふらむか
(訳)肌着が泣きの涙で濡れるという名木の川の辺、この川の辺で私が春雨に濡れてしょんぼり立っていると、家の人は思っていてくれるだろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫)
(注)衣手の(読み)コロモデノ( 枕詞 ):①手(た)の縁から同音を含む地名「田上(たなかみ)山」「高屋」などにかかる。 ②翻ることから、「返る」にかかる。 ③袖が両方に分かれていることから、「別る」にかかる。 ④「真若の浦」にかかる。かかり方未詳。⑤地名「名木なき」にかかる。かかり方未詳。 (コトバンク 三省堂大辞林 第三版)ここでは⑤の意
伊藤 博氏は、脚注で「衣が泣きの涙で濡れる意か。」と記されている。
(注)名木川:宇治市南部を流れていた川
題詞は、「名木川作歌三首」<名木川(なきがは)にして作る歌三首>である。
他の二首もみてみよう。
◆家人 使在之 春雨乃 与久列杼吾等乎 沾念者
(作者未詳 巻九 一六九七)
≪書き下し≫家人いへびと)の使(つかひ)にあらし春雨の避(よ)くれど我(わ)れを濡(ぬ)らさく思へば
(訳)これは家に待つ人の使いであるらしい。春雨が、いくらよけようとしてもこんなにしつっこく私を濡らしにかかるところから思うと。(同上)
(注)あらし 分類連語:あるらしい。あるにちがいない。 ➡なりたちラ変動詞「あり」の連体形+推量の助動詞「らし」からなる「あるらし」が変化した形。ラ変動詞「あり」が形容詞化した形とする説もある。(学研)
(注)さく:〔動詞の連用形に付いて〕〔「語る」「問ふ」などに付いて〕気がすむまで…する。…して思いを晴らす。(学研)
◆焱干 人母在八方 家人 春雨須良乎 間使尓為
(作者未詳 巻九 一六九八)
≪書き下し≫あぶり干(ほ)す人もあれやも家人(いへびと)の春雨すらを間使(まつかひ)にする。
(訳)濡れた着物をあぶって乾かしてくれる人がそばにいるとでもいうのか、そんな人はいないのに、家の女房は春雨までを使いによこして目を光らせている。(同上)
(注)あれや 分類連語:①あるのだろうか。あるからか。あるから…のか。▽「や」は疑問を表す。②あるとでもいうのか(そんなことはないのに)。▽「や」は反語。「…あれや」は逆接で下に続く。③あるか、(いや、ありはしない)。▽「や」は反語。下に続かない場合。
※「や」が詠嘆を表す場合もあるとの説がある。 ➡なりたちラ変動詞「あり」の已然形+係助詞「や」(学研)
(注)まづかひ【間使ひ】名詞:消息などを伝えるために、人と人との間を行き来する使者。(学研)
万葉集巻九には、同じような題詞「名木川作歌二首」<名木川(なきがは)にして作る歌二首>がある。こちらもみていこう。
◆焱干 人母在八方 沾衣乎 家者夜良奈 羇印
(作者未詳 巻九 一六八八)
≪書き下し≫あぶり干(ほ)す人もあれやも濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を家(いへ)には遣(や)らな旅のしるしに
(訳)あぶって乾かしてくれる人でもいるというのか。そんな人はいないのだから、雨の濡れたこの着物を、そのまま家に送ってやりたい。苦しい旅の証(あかし)に。(同上)
(注)な 終助詞:《接続》活用語の未然形に付く。①〔自己の意志・願望〕…たい。…よう。②〔勧誘〕さあ…ようよ。③〔他に対する願望〕…てほしい。(学研)ここでは①の意
◆在衣邊 著而榜尼 杏人 濱過者 戀布在奈利
(作者未詳 巻九 一六八九)
≪書き下し≫あり衣(きぬ)のへつきて漕(こ)がに杏人(からたち)の浜を過ぐれば恋(こひ)しくありなり
(訳)美しい着物が身にまといつくように、岸辺にぴったりくっついて漕いでくれ。杏人(からたち)の浜を素通りすると恋しくてたまらなくなるそうだから。(同上)
(注)あり衣の(読み)ありきぬの( 枕詞 ):①重ねて着ることから、「三重」にかかる。②衣ずれの音から、「さゑさゑ」にかかる。③貴重であったことから、「宝」にかかる。④同音から、「ありて」にかかる。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)
(注)へつきて:高級な絹が身にまといつくの意 ➡あり衣のは「へつきて」の枕詞。
(注)杏人の浜:所在未詳 「杏人」は「枳」の文字を分解して示したとみる説も。
歌碑の傍にある「由来と解説」案内板には、「(前略)この歌碑にある名木川は、この附近を流れていた川であると伝えられている。昭和十三年巨椋池干拓事業にともなう耕地整理のとき、その川床が農道となり、その道のかたわらに小さな歌碑が建てられた。昭和四十八年ごろには、付近一帯がさらに宅地として開発されることになり、この歌碑を建立し、古老の伝える名木川跡の記念とした。伊勢田町名木の地名は、これに由来する。」(宇治市教育委員会・伊勢田町史友会)と書かれている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」