万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その92改)―奈良県桜井市三輪ヶ崎―万葉集 巻三 二六五

●歌は、「苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに」である。

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奈良県桜井市慈恩寺万葉歌碑(長忌寸意吉麻呂)


 ●歌碑は。奈良県桜井市三輪ヶ崎にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆苦毛 零来雨可 神之崎 狭野乃渡尓 古所念

                              (長忌寸意吉麿 巻三 二六五)

 

≪書き下し≫苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに

 

(訳)何とも心せつなく降ってくる雨であることか。三輪の崎の佐野の渡し場に、くつろげる我が家があるわけでもないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

 詠われている「三輪の崎」について同著の脚注は、「新宮市三輪崎および佐野一帯という」とある。

 

 この歌碑が立っていた場所の近くの橋は式島橋であるがその上の橋は「新佐野渡橋」である。(桜井市の橋一覧 橋の名前を調べる地図参照)

 この辺りは、三輪山の裾野であるから、三輪の崎という地名というより、三輪山の先っぽ的感覚でとらえたら面白い気がする。

 また、「新佐野渡橋」の名の由来が分かればよいのだが、残念ながら手持ちの資料やネット検索してもわからない。これからの課題である。

 桜井市HPには、「番号:19、所在:桜井市水道局」として柿本人麻呂(巻十三 三二五四)」が、「番号20、所在:三輪ヶ崎」として長忌寸意吉麿(巻三 二六五)が、「番号:45、所在:慈恩寺、新佐野橋近く」として作者未詳(巻十一 二七〇六)」が紹介されている。マップで見るとほぼ団子状態である。199号線と中和幹線が立体交差する式島橋北東詰交差点は、これまでも何度も通っている。土地勘がないうえに、車のナビでの検索が思うようにいかない。三輪ヶ崎といっても漠然とし絞り切れない。番号45の歌碑の「慈恩寺」は住所としての名前なのか、実際のお寺かもわからない。ナビを頼りに慈恩寺まで山を駆け上って行ったが、歌碑らしいものは無くあきらめたりもした。

 

 HPのマップからこの交差点の手前当りであると想像はつく。

 交差点の手前の広場に「○○会三輪の里」の看板が立っている。デイサービス関係の車が3台ほど止めてある。その広場に車を止め、マップと照らしあわせてみることにする。車を降り入口近くに来た時、坂道を上る左手に石碑らしいものがある。駆け寄ってみるが残念ながら違った。振り返り199号線と中和幹線の立体交差を確認しなおす。広場入り口の看板の反対側に歌碑らしきものが。よく見ると、「20 き 万葉歌碑めぐりロマンラリー」の白札が。広場に車を止めたのが正解であった。まさかである。

 見つかるときは、見つかるものだとスマホで歌碑を撮影する。

 万葉歌碑の所在地名と歌碑マップでおよその存在場所は分かるが、ピンポイントで絞り込むのはなかなか難しい。例えば「〇〇運動公園」とあったとすると当該運動公園には簡単に行けるが、そこからは現地で足で探し出すしかない。事務所などで聞いてみるのも一つの手である。しかも歌碑がある場所は、概して道が狭く対抗車とすれ違えないようなところにある場合が多い。苦労して見つけた時の喜びはひとしおである。何気なく車を止めたところに歌碑があるとラッキーなことも。今日の歌碑もその一つである。4月22日の柿本人麻呂の歌碑との出会い(ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて―その67―」参照)に次ぐ2例目である。

 

 

 長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて―その53―」で次のように紹介している。(抜粋)

 

◆刺名倍尓(さすなべに) 湯和可世子等(ゆわかせこども) 櫟津乃(いちひつの) 檜橋従来許武(ひばしよりこむ) 狐尓安牟佐武(きつねにあむさむ)

                  (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二四)

 

(訳)さし鍋の中に湯を沸かせよ、ご一同。櫟津(いちいつ)の檜橋(ひばし)を渡って、コムコムとやって来る狐に浴びせてやるのだ。

(注)さすなべ【(銚子)】:柄と注口(つぎぐち)のついた鍋、さしなべ。

(注)長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ):持統・文武朝の歌人。物名歌の名人。

 

 題詞は、「長忌寸意吉麻呂歌八首」とある。(三八二四~三八三一)

左注は、「右一首傳云 一時衆集宴飲也 於時夜漏三更 所聞狐聲 尓乃衆諸誘奥麻呂曰關此饌具雜器狐聲河橋等物 但作謌者 即應聲作此謌也」

 

 右の一首は、伝へて云はく、ある時、衆(もろもろ)集(つど)ひて宴飲す。時に、夜漏三更(やらうさんかう)にして、狐の声聞こゆ。すなはち、衆諸(もろひと)意吉麻呂(おきまろ)を誘(いざな)ひて曰はく、この饌具、雜器、(ざうき)狐聲(こせい)河橋(かけう)等の物の関(か)けて、ただに歌を作れ といへれば、すなはち、声に応へてこの歌を作るといふ

(注)やらう【夜漏】:夜の時刻をはかる水時計。また、夜の次官。

(注)さんかう【三更】:子(ね)の刻。

 

 このような「物名歌」が得意な歌人である。リズム感あふれる歌を残している。

 歌碑の歌が、実際に和歌山に旅をした時の紀行歌的なものか、佐野の渡しがあったかもしれないこのあたりで詠ったものなのか、題詞的なものはないが、雨・三輪・渡し・家等の「関(か)け歌」なのか、と考えると興味がつきない。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP )

★「桜井市の橋一覧 橋の名前を調べる地図」

★「weblio古語辞書」

 

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